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七十二候

第60章 水沢腹堅(さわみずこおりつめる)


 徹はどこまでも先生だしお母ちゃんだった。でも、身体が疲弊していると自分の音が聴こえなくなるのは確かだったし、心が乱れていると自分自身を見失ってしまうのも確かだ。
「そして、萌は何のためにコンクールに出るの? 名誉なんかじゃないよね?」
「……多くの人を喜ばせる演奏家になるための通過点だと思ってる……」
「思ってる」じゃない。正確には「思い出した」が正しかった。
「うん。俺が知ってる萌は純粋に音楽が楽しくて楽しくて仕方ないって様子だった。今の状態で多くの人、喜ばせることはできる?」
 図星だった。だからこそムキになってしまった。
「……るよ……分かってるよ! 海外に来てみて、いろんなことを知れば知るほど自分の無力さや非凡さを痛感するの。それでも自分なりに頑張ってきた!」
 私は泣きながらも続ける。
「遠いアルゼンチンで頑張ってる徹の隣でも胸を張っていられるように、頑張りたいの。徹に……追いつきたい……」
 パリの街中でケンカしているのか?と通行人に怪訝な顔をされる。だけどそんなことはどうでも良かった。
「そんなの……好きなことをのびのびとやってる萌の方が、俺は好きだよ……」
「そんな……そんなこと言われても」
「ねぇ、コンクールは見えない敵じゃなくて、お客さんのために、そして俺のために演奏して?」
「うん……善処するけど……」
「毎日それだけ吹いてるなら、技術的なことは大丈夫でしょ? 萌に必要なのは休息だ」
「でも」
「ダメ。命令」
 そう言って徹は無理やり私を家に帰そうとした。
「今から俺がご飯作る。いいね?」
 かくして、デートはなくなり、この日は養生する日となってしまった。
 成長した姿を見せたかったのに、本当に情けなくて再び涙が出た。
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