• テキストサイズ

七十二候

第60章 水沢腹堅(さわみずこおりつめる)


 そして月日は流れ、5月。パリは東京よりも少しだけ寒かった。
 徹から、フランスへ国際試合に行くから会おうと連絡を貰った。偶然にも試合後は余裕があるらしく、私のコンクールの日程前後に会えるらしい。徹と会ったのは1年ほど前。こんなに頻繁に会えるのはとても嬉しかった。

 コンクール3日前。少し体調は良くなかったが、徹に会いたい一心で待ち合わせのカフェへ急ぎ足で向かった。背の高い徹はすぐに分かった。徹は試合後なのか、CAサン・フアンのジャージを着ていた。
 手を振ると徹もこちらに気が付いた。しかし、開口一番出た言葉は「痩せすぎじゃない?」だった。徹はすぐに私を抱きしめてくれた。身体の具合を確かめるように。
「骨張ってる。ちゃんとご飯食べてる?」
「あー……食べる時間なくて、最近はプロテインバーばかり」
「クマも酷いじゃん……休んでないんだね?」
「え? 休んでるよ、それなりに……」
 1年ぶりの感動の再会で開口一番にする会話がこれなんて、と自分の情けなさを感じた。
「練習は毎日どのくらいしてるの?」
「最低6時間。学校のレッスンを入れたらそれ以上やってる。もう腕も上がらないし、指の筋も口も痛くて痛くて」
「萌。ちゃんと休もう」
「え……でもあと3日だからそれまでは頑張るよ」
「ダメ」
 徹は頑なだった。私も引かなかった。
「何で? 頑張らせてよ……全然足りないんだよ」
「頑張り方を正せばいいんだよ」
「……頑張り方? こうしている間にもライバルたちは練習をたくさんしているんだよ?私まだ自信持って吹けないのに……後悔したくないのに、どう頑張ればいいの……?」
 私は項垂れて大粒の涙をこぼす。ピンと張っていた心の糸が切れた音がした。

「萌。ここ最近のメッセージのやり取りを見ていてもさ、高校のときのほうがキラキラと音楽を楽しんでいたように感じるよ?」
 徹は私の頭を優しく撫でながら言った。
「いい? まずは身体が資本。バレーだろうがクラリネットだろうが、いいコンディションがいいパフォーマンスに繋がる。ひいては、精神状態にも影響する」
「うん……」
「あと3日で太れるだけ太りなさい。ある程度筋肉をつけて重くしないと」
「そんなのあと3日じゃ……」
「返事!」
「はい……」
/ 234ページ  
スマホ、携帯も対応しています
当サイトの夢小説は、お手元のスマートフォンや携帯電話でも読むことが可能です。
アドレスはそのまま

http://dream-novel.jp

スマホ、携帯も対応しています!QRコード

©dream-novel.jp