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七十二候

第60章 水沢腹堅(さわみずこおりつめる)


 あれから、徹のことをずっと考えていた。正直練習に身が入らなかった。冬に咲くクリスマスローズなどの花を見ても綺麗と感じないし、なにも食べたくないとすら思った。
 それでも、音楽は仕事である。そんな私の事情とは関係なく、今日もやるべきことをやるのだ。

 留学時代のこと。私も見知らぬ世界へ飛び出した。ただ芸大を出ただけでは自分に自信が持てなかったから選んだ道だった。2017年4月に無事音楽院に入学した。
 私が選んだのは私立の音楽院。年齢制限もなく、必修科目も少ないためコンクールに専念できる。また、本来9月入学なのだが4月に入学できて、卒業後にすぐに学びに行けたのも大きかった。
 生活は不安だったが、日本人コミュニティのおかげで少しずつフランスに慣れていった。年齢や国籍を超えて音楽を学びたい人々と切磋琢磨し、互いに演奏を聴き合ったり、演奏することが楽しかった。最近は連絡を取っていないけど、あの時の仲間たちは元気だろうか。
 留学をしてみて驚いたのは、海外の人は性格だけでなく演奏も主張が激しいことだった。吹けていなくてもしっかりと主張がある。日本人にはない感覚だった。そのためか海外の奏者は拍感がありとても立体的。日本人の演奏は丁寧で綺麗だけど平べったい印象を感じてしまう。
 またルーブル美術館やオルセー美術館を訪れフランス文化に触れ、教養を身につけていった。
 演奏環境は、日本にいたときのように24時間演奏できることはなかったが、個人レッスンや室内楽のレッスンであっという間に1日が過ぎていった。徹とも毎日の報告をし合っていたからこそ、乗り越えられた部分が大きかった。

 そして2年目の2018年、とある国際クラリネットコンクールに挑戦した。1月に応募を完了させ、すでに音源審査による事前審査は突破していた。5月の3日間で1次審査からファイナルまで行われる。
 5か月で課題曲を仕上げるために、私は必死だった。その練習の日々のことはあまり覚えていない。留学中に成果を出すことを自らの目標と課していたから、とにかくがむしゃらだった。
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