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七十二候

第58章 雉始雊(きじはじめてなく)


「……えっと……」
 言葉が出なかった。アルゼンチンに渡るとき、何か成果を出して答えを見つけるまでは日本には帰らないと言っていたが、こんな形で日本に戻ってくるとは思わなかった。
「驚かせちゃったよね……ごめん……」
「……帰化って、アルゼンチン人になる……ってことだよね……」
「うん……ごめん」
 徹は下を見て、私の目は見てくれなかった。
「オリンピックでアルゼンチン代表になって、それで日本を倒したいんだ」
 帰化するスポーツ選手はたくさんいる。徹にとっても、オリンピックは影山くんや牛島くんを倒すには十分すぎる舞台だ。
「そ、か……その……日本には」
「戻らない」

「だよね……」
 ショックだった。いつか一緒になれる日がくると信じていたから。
 だけど家族内で大揉めして、それでも徹を育てた家族が許してくれた。私に止める筋合いはないし、夢を追う徹の味方でいたい。

「だから、萌。別れたい」
 徹は笑顔で言った。
 応援する、と言おうとした矢先に応援すら許してもらえない決別の言葉を言われた。

 帰化の問題はセンシティブで、帰化を良く思わない人だっているだろう。日本では徹はほぼ無名かもしれないけど、それでも日本からもアルゼンチンからもバッシングを受ける可能性だってある。それでも徹は自分の意志を貫くのだ。
 そんな徹をやっぱり私が応援しなければ。最後まで味方でいなくてはと思った。
「徹のこと、応援するよ。すごく悩んで考えて決断したんでしょ?」
 そんな言葉とは裏腹に、脳裏ではもう私たちが一緒になることはないんだと思った。この先もしかしたら結婚して、子どもを授かって、幸せに暮らす未来だってあったかもしれない。だけど、もうそれはない。
 私は日本でプロのクラリネット奏者を目指しているのだから。私の未来は日本で音楽をすることしか描いていなかった。音楽の仕事は自分で勝ち取ることも必要だが、師匠や縁のある方々から舞い降りてくるものも多い。私が音楽でご飯を食べていくために持っていたカードは、すべて日本が舞台だった。海外をまたにかけるプロはいるが、その人たちは天才中の天才なのだ。
 そんなことを考えたら悲しくて、未来が閉ざされた気持ちになって、自然と涙が溢れた。
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