第53章 乃東生(なつかれくさしょうず)
「しょうがないな」と、徹は私の前に立ち、右手の薬指に指輪をはめる。気恥ずかしいけど、お姫様になったでも気分だった。
「綺麗」
私は右手を星空にかざして目を細めて眺めた。星にも劣らない美しさだと思った。
「楽器吹くときは邪魔かもしれないけどさ、出かけるときくらい付けてね。ねぇ、マフラー巻いてよ」
「えー? しょうがないなぁ」
徹にかがんでもらい、輪を作って通すだけの一番シンプルな巻き方で巻いた。徹の顔が近くなる。まじまじとその顔を見ると、本当に綺麗な顔だった。もうすぐ、見られなくなると思うと、また涙が出そうだった。
「似合ってるよ」と、私は気持ちを悟られないように淡々と感想を伝えた。
「ありがと! 毎日使うから」
「うん。もう、かがまなくていいよ?」
私が徹の近さに戸惑っていると、「ん? キスするからかがんでんの」と不意打ちにキスをした。
まさか徹が日本からいなくなるとは思いもしなかった。それから私は暫くの間、魂が抜けたようにぼーっとして過ごした。気を抜くと涙が出てしまった。でも、いつか日本に戻って来る、そう信じて私も頑張るしかないと思っていた。
その指輪は、今でも大切に取っておいてある。徹には申し訳ないけど、見ると振られた日のことを思い出すし、楽器漬けの日々でなかなか付ける出番はなかった。たまには磨いて、付けてみようかな。さすがに、もう徹はアルゼンチン人であることは受け入れられているから。今の問題は、ずっとその先のこと。どう生きていくか、ということ。