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七十二候

第41章 霜始降(しもはじめてふる)


 誰よりも自分を信じて一人アルゼンチンで戦う徹が挫けそうなときに、そばにいてあげられないのは私自身も歯がゆいし、苦しい。日本とアルゼンチン。お互いに地球の裏側に住む私たちはどうやって乗り越えていくのだろう。私は日本でプロ奏者として成長している途中。この地で演奏活動の輪が広がっているところなのに。
 コンクール本選で何か変わったりしないだろうか。いや、変わって欲しい。


 そして本選がやってきた。今日の舞台は都内の有名なコンサートホール。こんなところで演奏できるのは幸せなことだ。見事な秋晴れでホール前には綺麗に咲いた鮮やかなコスモスたちがさわさわと風に揺れていた。
 きっと入賞したら人生が変わる、と信じて私は挑みに行く。でも失敗しても次はある。今日の演奏曲は私の得意なモーツァルトだ。控室でも落ち着いて集中できている。徹や岩ちゃん、そして音楽仲間たちから受け取った激励のメッセージを改めて読むと、今までの出来事が突然頭の中を駆け巡った。
 中学生のときに初めて吹奏楽を聴いて感動したこと、クラリネットの音に惹かれたこと。クラリネットを手にしたときの重たさ、そして初めて音が鳴ったときの喜び。音大に行きたいと親に打ち明けた日のこと。レッスンの日々のこと。上手く吹けずに苦しんだこと。
 冬の寒い日でも、放課後に残って一人で練習していたこと。徹と岩ちゃんが下駄箱で待っていてくれたこと。徹が体育館から私の音を聴いてくれていたこと。挫折しても徹が救ってくれたこと。受験を乗り越えた先はもっと辛い大学時代があったこと。フランスは言語にも苦労してもっとしんどかったこと。
 それも、全部、徹がいてくれて、励ましてくれていた。
 全部、私のこと。全部私の音楽の糧となっている。

 舞台に立ち、周りを見渡す。格式高い立派すぎるホールに一人で立っている。全員が私を見ている。
 深呼吸をして目を閉じる。心を静寂に。この場の張りつめた空気を感じる。

「会場を驚かせてきてね」
 徹からもらった言葉を空気と一緒に飲み込む。

 よし、行こう。
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