第9章 揺蕩う幸福
「……勝手にしろ」
ぶっきらぼうな一言に、結の頬が緩む。
歩き出した背を追い、靴音が朝の道に重なった。
普段は賑やかな通学路も、この時間はまだまどろみの中にある。
遠くで目覚まし時計が鳴り、どこかの家のカーテンがゆるく揺れた。
「生徒に見られたときの言い訳、考えておけよ」
「はーい」
軽い返事をしながら、結は犬を散歩させる老人に会釈をする。
通い慣れた道が今朝はわずかに違って見えた。
肩を並べて歩く距離が、どこか特別に思えてならなかった。
雄英高校の門をくぐり、教室に辿り着いたのは登校時間よりずっと早い。
静まり返った室内にはまだ誰の姿もなく、普段の喧騒が嘘のようだった。
窓から射し込む淡い光が机に影を落とし、ひとりであることを強く意識させられた。
単調で穏やかな音が背中をゆるやかに押し、まぶたが重くなっていく。
昨日の疲れがようやく輪郭を持ち始めていた。
そっと机に顔を伏せ、目を閉じる。
昨夜の出来事と今朝の言い合いが思い返され、胸の奥にじんわりと温かさが広がった。
静寂に包まれた教室に、小さな寝息が溶けていく。
柔らかな朝に誘われ、結は静かに眠りへ落ちていった。