第9章 揺蕩う幸福
「何度も言わせるな」
「言われても今日は折れないよ」
朝の柔らかな光に照らされた住宅街で、黒猫がのんびりと欠伸をしていた。
すぐそばでは、静かな朝にそぐわないほど張り詰めた空気が漂っている。
昨夜の穏やかさは影を潜め、相澤の声は冷たく硬い。
無理を押してでも出勤しようとする彼の前に立ちはだかり、結は首にかけたネクタイを黙々と整えていた。
言い争いにも似たやり取りの中、時間だけが容赦なく過ぎていく。
互いに譲らぬまま、路地裏には朝の光が滲み、肌を撫でる風が二人の熱を冷ましていた。
「子供じゃないんだ。自分の面倒くらい見れる」
「でも、その怪我」
「でもじゃない。いいから寝ておけ、隈酷いぞ」
相澤の言葉は素っ気なく、先日の廊下のように手が伸びてくることもない。
結は無言でリュックから携帯を取り出し、フロントカメラで自分の顔を確かめる。
寝不足は隠せていないが、胸を突いたのは画面の隅の数字だった。
いつもの出勤時刻をとうに過ぎている。
「消太さん」
「今度はなんだ」
「いつもなら家出てる時間だけど」
結が促すように「いいのかな?」と言うと、相澤は遠くを見たまま、大げさなほど深く息を吐いた。
諦めを帯びた声音は、彼の心がすでに折れかけていた証だった。