第9章 揺蕩う幸福
「何度も言わせるな」
「言われても今日は折れないよ」
朝の淡い光が包む住宅街でのんびりと欠伸をする黒猫の前には、普段とは違った光景が広がっていた。
昨夜の柔らかな口調とは裏腹に、相澤の物言いは強硬だった。
結は行く手を塞ぎながら、首に下げたネクタイを丁寧に結んでいた。
相澤の身体にはいくつもの包帯が巻かれ、完治していない怪我が無数に残っていた。
プロヒーローとはいえ、街中を歩くのは危険極まりない。
しかし、相澤は譲る気配を見せなかった。
一方で結もまた、彼の身を案じるあまり、決して引き下がろうとはしなかった。
二人の間で心配と遠慮の攻防が繰り広げられ、どちらも譲らず時間だけが無情に過ぎていく。
相澤の眉間には深い皺が刻まれ、苛立ちが漂っていた。
「子供じゃないんだ。自分の面倒くらい見れる」
「でも、その怪我」
「でもじゃない。いいから寝ておけ、隈酷いぞ」
先日の廊下での出来事とは違い、相澤の手が結の目元に伸びることはなかった。
彼の言葉は厳しく冷たさが感じられるが、それでも結には心配の表れに他ならなかった。
反論する代わりに結はリュックサックから携帯電話を取り出し、自分の顔色を確認した。
画面には出勤時間をとっくに過ぎていることを示す数字が並んでおり、焦りを加速させた。
「消太さん」
「今度はなんだ」
「いつもなら家出てる時間だけど」