第5章 初心者マーク
社長や会長といった役職の人と身近に接したことがない光莉にとって、一が身を置く世界は未知の世界だ。きっと想像できない苦労があるのだろう。
だとすると、あの時得体の知れない自分を部屋に置いてくれたのはどういう行動だったのか。
「押しに弱いのかな」
まぁ、秘書みたいな美人に迫られたら世の男の大半は押し負けるだろう。しかし自分は平凡な人間だ。
「いや、私の運が良かっただけか。それか一の運が悪かったか」
一は可哀想だ。ホームレスの私に目をつけられたのだから。あの時の自分の必死さに反省しつつも、驚いて戸惑う一の表情は面白かった。
クスリと笑ったところでピーッという電子音が玄関から鳴り響いた。
電子ロックが解除される音に光莉は思わず壁にかけられた時計を確認する。
時刻は19時、予定の時刻より1時間も早い。しかし鍵は本人しか持っていないはず、慌てて玄関に向かうとガチャリと扉が開き疲れた表情の一が入ってきた。
「お、お帰りなさい」
声をかけると一は驚いたように顔を上げ逡巡した後、髪をくしゃりと掻き上げる。
「...あぁ、そうか。悪い、待たせたか」
あれ?もしかして呼び出したこと忘れてた?
謎の間に光莉は鞄を受け取ると首を傾げつつ、リビングに向かう一の後ろをついていく。
ドサリとソファに腰を下ろした一に、光莉は少し熱めの白湯を渡した。頭痛だろうか、こめかみを押さえた一は眉間に皺を寄せている。
「な、なに?」
白湯を差し出す光莉の姿に一がふと笑う、突然の表情変化に光莉は戸惑った。一が纏う緊張感が和らいだ気がするのは自分の気の所為かもしれない、けれどそうだったらいいなと思ってしまう。
「いや、よく分かったなと思って」
それは今まで一のことを見てきたからだ。好きな相手の事を知りたくて観察してしまうのは当然の行動だろう。
...ん?ちょっと待って...分かるほど見てたってバレてる!?だから笑ったの!?
カップに口をつけた一は、自分の体に温かい白湯が巡っていく感じに目を閉じたが慌てたようにキッチンに戻っていく光莉の足音に目を開く。後ろ姿に何気無く視線を向けた一は思わず立ち上がった。
「おい、お前...え?」
腕を掴まれ振り向いた光莉の顔は真っ赤になっていて一は驚いて言葉を止めた。