第1章 紫の陽だまりを見た日
「大丈夫よ。俺は食いに来ただけだから」
「そうですか……」
言いかけて、ぼんさんの視線とぶつかった。この人、こんなに優しい目をしていたんだっけ、と酒ではっきり回らなくなった頭で考える。動悸がするのは、アルコールのせいだろうか。
「ごめんね、嫌な話させちゃって」
とぼんさんの表情に影が差し込んで私は慌てて手を前に振った。
「違いますよ違いますよ! 完全に私のせいですから!」
それに、私が話したかったんです。一人になりたくなかったんです、といくつか言ったらそっか、とぼんさんは目を逸らす。少し安堵してくれたような感じがした。そう思いたいだけなのかもしれないが。
「まぁ、気持ちは分かるけどね」
ぼんさんの低く穏やかな声が妙に響く気がした。
「車の話ですか?」
「いや、一人になりたくない気持ちね」
「ああ……」
もう一度こちらと目が合った時にはいつも通りのような瞳をしていた気がするが、この人は時々どこか遠くを見ているような気もしてならなかった。その目の奥で何を見据えているのか、私より二回り近くも歳上の彼に、共感することすら出来ないのだろうか。
「じゃあ、今度はそちらのお話を?」
外で会話をする時は、出来るだけ私たちスタッフは彼らの名前を呼ばないようにしていた。本名は知ってはいるけど、今更呼ぶのも気恥しいので、私を含めるスタッフはみんな、そちらやアナタなど抽象的な呼び方をするのがいつも通りだった。
「俺? 俺の話は全然面白くないよ」
と言いながらも、ぼんさんは身の上話や周りの人たちの話をした。どれも聞いたことのある話だったが、それをいつも面白可笑しく話すものだからついつい聞き入ってしまう。
でも、なんとなく感じてはいた。あの遠くを見つめている目に映る何かについてはきっと一つも話していない。それでもよかった。ぼんさんの声や話し方は聞いているだけで心地がいい。
帰り。誘ったのは私なのだからと言う私の手を止めて、ぼんさんが食事代を支払ってくれた。俺が来たかっただけだから。そう言って。
「だから、貴方は周りから信頼を得ているんですね」
お酒任せで少し大胆なことが言えた私は冗談っぽくぼんさんの顔を覗き込んだ。ぼんさんはよく見慣れたはにかむような笑みで、そうだといいんだけど、と呟くように返した。