第1章 序章
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まだ月が昇る夜中の筈なのに、外がやけに明るくなった。
「クソッ、火事かよ。せっかく良いとこだったのに。」
急に縄が緩くなった事で、一気に空気が気管に入った。突然の事に激しく咳き込む。生理的な涙もいくつか零れた。どうやら命拾いはしたらしい。穴だらけの障子越しに外を見れば、男の言った通り炎が燃え上がっているのが見える。まだ遠くにあるようだが、こちらまで火が移るのも時間の問題だ。男は急いで躯を離し、せっせと着替えを始めた。私と私に使用した縄は放置して奴は店から出てゆく。
腰抜けが。女を助ける余裕すら持ってないのか。いや、そもそも女の事はどうでも良いのか。
店にいた他の客らも慌てて店から出てゆくのがわかった。ドタドタと足音がうるさい。それを呆れながら耳にして、私は上体を起こす。幸い、腕の縄は後で外しやすいように緩く縛られていた。それを解き、縄を部屋の隅へ放り投げる。首の縄は少々複雑に結ばれていたが、なんとか外せた。溜め息を吐き、床に無造作に置かれていた藍色の着物を着れば、私は鶴の間から出て行った。
焦げ臭い匂いが店の中に充満しはじめた。恐らくこの店にも火の手が移ったのだろう。逃げる何人かの遊女とすれ違ったが、私はゆっくりと自室へ向かった。
「ちょいと、あんたは逃げないのかい。『鈴蘭』太夫。」
声をかけられた方へ顔を向ければ、そこには一回りは年上の同僚がいた。
「はっ。どうせ生き延びてもこの地獄をまた味わうだけさね。さっき客に殺されかけた時に思ったんだが、これ以上ここに居なくて済むなら、死ぬのも悪くないと思ったよ。………あんたもそう思ったからまだここにいるんだろ。」
そう返せば同僚の采女(うぬめ)は薄く笑った。