第7章 外の面(とのも)
遊女の本名。それは「死角」にいた者達にとって、世界で一番の宝物。吉原に送り込まれる前に与えられた親からの愛の証であり、客に幻想を抱かせる源氏名とは違う、遊女が一人の人間である事を思い出させてくれる大事なものだ。遊郭では源氏名で呼び合う事しか許されなかった以上、他人に本名を教えるのには大きな意味があった。
もし采女が本名をまだ彼に伝えていないと言うのならば、菊はどうしても彼に采女の宝物を授けたかった。
「知らねえな。興味もねぇ。」
手にした煙管から煙が上がってゆくのを見つめながら、高杉はぶっきらぼうに答える。
「しずる、よ。亡くなった遊女達の墓石には本名で刻んであるらしいから。アンタの事だ、場所は知ってんだろう? 今度、顔を見せに行ってやっておくれよ。そうすれば采女も喜んでくれるはずさね。」
興味がなくとも知っておけ、とでも言うように菊は采女の名を告げた。それを聞いた高杉も高杉で静かに立ち去る。さっそく、采女に会いに行くのであろう。大分前に聞いた情報が役に立った事に、菊は安堵する。
万事屋に来たばかりの頃、出歩けない菊の為に新八と神楽が積極的に吉原炎上後の情報を教えてくれていた。正直、吉原の事は聞きたくもないのが本音だったのだが、今では些細な情報も教えてくれた二人に感謝している。彼らがいなければ、菊は亡くなった同僚達がきちんと弔われたのかも分からないままなのだから。墓は吉原の近くの地上にあるらしいが、いつか銀時に頼んで連れて行ってもらうのも良いかもしれない。まさか「死角」での思い出を懐かしく感じる日が来るとは夢にも思わなかったが、菊は高杉の道中の無事を祈りながら見送る。
高杉の背中が見えなくなる頃には、何故か顔中にキスの痕がべっとりと付いた銀時も菊の元へ戻ってきた。「岩盤娘にやられた」と不快な表情で告げる彼は、どうやら団子屋で大変な目に遭っていたらしい。何があったのかを不思議に思いながらも、菊は銀時の後に続いて帰路についた。