第26章 恋心
「くっ…やるわね」
日が落ちる頃に、ようやく彼女からそんな言葉を聞いた。
片膝をついて、少しだけ息を乱す。それでも次にはスラリと立ち上がり、私の目の前に立った。
「でも、まだ印の結び方が遅いわ」
私は彼女の言葉に、とうとう溜息を洩らした。
腕をだらりと下に下ろす。今はもう手がないと思えたのだ。
「…残念です。でももうそろそろ終わりにしないと」
「そうね。長い時間ありがとう」
*
紅さんは涼し気な表情をして、ポーチから水筒を取り出すと私の方に差し出してきた。
「二つ用意したからどうぞ。ナズナさん、貴女かなり息が上がってるわよ」
「…ありがとうございます」
水筒のお茶を飲んだ後、紅さんに目を遣る。
すると、彼女と視線が合った。目を細めて笑みを浮かべている。
「最後の幻術は効いたわ。貴女は…九尾事件を深く知ってるのね」
「え?」
「大きな獣の影、あれはきっと九尾でしょう?強い風のように追ってきて飲み込まれるようだったから…ぞっとしたわ」
紅さんは水筒を口から離して、目を伏せた。彼女は憂いを帯びた表情をしている。
「そうでしたか。自分ではあまり自覚していなくて……。でも、確かに根底にあるのは九尾かもしれません。あの事件で父を亡くしましたから」
私は彼女から目を逸らして、遠くにある木を眺めた。
やはり私の幻術には、あの姿が現れるのか。
小さく呟きながら改めて想像を巡らすと、紅さんが意外なことを口にした。
「貴女のお父様のことは知ってるわ。確か、大きな熊を口寄せに使う方でしょう?」
「そうです!父を知ってるんですか?」
「と言っても噂程度よ。私もその頃は、まだ周辺の警備を任されていたくらいの歳だったから。大きな熊が何人かの負傷者を運んで、救護所に運んでいたと聞いたの」
紅さんは水筒をポーチに仕舞い、こちらに目を向けた。
すっと片手を差し出す。
「あまりに巨大だったから、敵襲かと皆大騒ぎになったけど、背に乗った忍たちが慌てて攻撃を止めたって、笑い話もあるくらい」
彼女はくすりと笑い、私の手の水筒を受け取った。
ごくごくと飲み干して、その水筒はもう空になっていた。少し甘い香りのする口当たりの良いお茶だった。それで、気持ちも落ち着いた。