第36章 白い夢 第一夜 【帰蝶】
もうここで、自分は本当に死ぬのだろう…
そう思って藻掻くのを止めたとき、突然に重ね着していた小袖が後ろからはぎ取られ、身軽になったのと同時に腰を掴まれる。
ぐいっと力強く引き上げられて、顔が水面に浮上した。
誰かの腕に支えられている。
間近にあるその人の顔に、名無しはハッと驚いた。
(帰蝶さん!)
信じられないけれど、決して見紛うはずはない。
3年前から行方知れずになり、生死もわからなかった想い人が突然に現れ、さらに自分を助けてくれている。
「大きく息を吸いこんで。そうだ。そのまま上を向いて顎を上げて…」
こんな状況でも落ち着いた声色での冷静な指示に、名無しは素直に従った。
「大丈夫だ。そのまま身を委ねていろ」
(帰蝶さん…良かった…生きてた…)
冷たい水に浸かりながら、熱い涙がボロボロ零れていくのを止められない。
やがて、頭上から野太い男性の叫び声が聞こえた。
異国の言葉のようで何を言っているか名無しにはわからなかったが、理解しているらしい帰蝶は返事をしている。
太い縄が投げこまれて、2人は無事に地上に引き上げられた。
「はぁっ…はぁっ…!」
苦しい。
鉛の塊になってしまったように重い体の中で、暴れ回るごとく心臓が動いているのを感じる。
「名無し様…大丈夫ですか…?」
そう問う帰蝶も肩で大きく息をしている。
その顔色はひと目で尋常じゃないとわかるほどに真っ青。
色を失った唇から出た声も震えていて、
(…私よりもずっと苦しそう…!!)
「はい…ごめんなさい…迷惑をかけてしまって」
大変なことをさせてしまったと、申し訳ない気持ちに苛まれてオロオロする。
それなのに、
「大人しく身を任せてくれたから、上手く救う事ができた」
帰蝶は責めも追求もせず、萌黄色の目を少し細めて、そんなことを言った。
(ああ…)
先程まで命を繋ぐためだけに動いていた心臓が、別の意味でドキドキと高鳴っている。
想い人が生きていた!
身を挺して命を救ってくれた…!
その瞬間、死んでいた名無しの心が再び息を吹き返したような、そんな気がした。