第36章 白い夢 第一夜 【帰蝶】
「こんなあさましいお願いをしてすみませんでした…。帰ります…」
ソファから立ち上がって、逃げるように出入口へと駆け出した名無しを、
「待て」
帰蝶は呼び止めた。
側に寄り、懐から取り出した白い布を差し出す。
驚きながら名無しが受け取り、おそるおそる涙を拭っていると、思いもかけない言葉が耳に入った。
「……明日の夜、ここに来い」
「え…?」
「住み込みの女中や部下には、しばらく休暇を取らせる」
「……」
「俺は、愛や恋など興味はない。もちろんそれ以上のことにも。それに関しては、人を導けるほどの技量ではない。本来は適任ではない…」
落ち着かない感じで腕を組み、斜め下へと視線を逸らしながら言う帰蝶を、名無しはしばらく呆然としながら見つめた。
ずいぶんと遠回しな言い方だけど、それはつまり…
(なんて生真面目な…)
そう思い、胸の奥でふふっと笑った。
「はい…ありがとうございます」
名無しの涙はすでに止まっていて、頰がかぁっと熱くなる。
「送ってやろう。宿はどこだ?」
夕闇に染まった街に映える帰蝶の白い外套。
見つめながら後ろを歩く束の間の時間は、とても優しく幸せなもの。
願いを聞き入れてもらった嬉しさ、
明日からはどんな夜になるのだろうという期待と恥ずかしさ、
そして一握の不安。
入り交じる感情を大切に噛みしめながら、名無しは堺で過ごす自由な1日目を終えた。