依々恋々-イイレンレン-@Shanks in 現代社長
第3章 君を想うとき
早足に自宅に入る。
玄関左手の部屋。
🌸の退院が決まってすぐに家のものを整理して、忘れずに施錠するようにしている。
扉を開けた左手の棚に、ハンガーに掛かるダンヒルのセットアップ。
応接セットを抜け、車の鍵と一緒のリングにかかる鍵でキャビネットの下段を開ける。
解錠した中の金庫の二段目。
一番手前にある小箱を開ける。
そこに鎮座するのは、ベルトに傷がついた愛用の腕時計。
金庫の前に座り込んで、中をぼんやりと眺める。
はじめての誕生日の名刺入れ。
バレンタインのネクタイ。
いつも部屋で過ごす時に着ていた揃いのルームウェア。
初めて揃えた夫婦箸。
あの日以降が白紙の、使い古した手帳の表紙を開く。
(🌸)
裏表紙に挟まれた写真。
一年と少し前。渡した指輪を、潤んだ瞳の笑顔でこちらに見せている姿は、幸せそのものに見えた。
彼女の前に出す勇気のないものたちに、この時に戻れたなら、と女々しい考えがよぎる。
婚約指輪ではなく、結婚指輪を用意すればよかった。
3月を待たずに、早々に出しておけばよかった。
写真の裏うしろに折り込んで挟まれた婚姻届に、提出日が未記入であること以外に不備はない。
何も公的に証明できるものがなかった。
写真も、贈り物も、自分の記憶も、周りの言葉も。
婚姻届に記された筆跡さえ、今の自分には示しようがない。
なにもかもが、彼女には「知らないもの」で恐怖にしかならなかった。
失って、変わってしまっても、隣りにいることを許されたのが唯一、救いだった。
いくら周りに恋人だ、婚約者だと説明されたとて、「今」の彼女に、自分は見知らぬ男。
それでも、同じ部屋で過ごしてくれるだけで、胸が締め付けられる。
本当は、怖いんじゃないか。
誰かに助けを求めてるんじゃないか。
二人で過ごす部屋は、今の彼女には「監獄」なのではないか。
それを聞く勇気が持てないのは、彼女に恐怖を肯定されてしまうとギリギリのラインで保っている、今、向けることを許されている温かいはずの気持ちが一変して、ドロドロと冷たく黒く、醜いものへと姿を変えていってしまうから。
「っく、う、」
あの日以来。
彼女を想うたびに、この身を焦がして蝕むように変わっていくそれを、愛と呼んでいいのかさえ今の自分にはわからない。
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