第3章 狂犬は彼女の全てを喰らいたい
春千夜を座らせたまま、私は水道でハンカチを濡らしてベンチに戻って、春千夜の方に向き直る。
「血付けたまま街歩いて、よく補導されなかったね」
春千夜の顔に付いた血を拭き取りながら、苦笑すると春千夜が顔を背ける。
「ちょっと、動かないで。血取れないじゃん」
「んな事しなくていいっ……お前のハンカチがゴミの血で汚れんだろーが」
返り血で汚れた自らの顔より、私のハンカチが汚れる心配をしてくるんだから、変わっている。
「そんな事気にしなくていいよ。ハンカチは洗濯すればいいし。とにかくじっとしててっ!」
少し強く言うと、春千夜は渋々といったように大人しくなった。
たまにこうやって素直になるから、可愛く感じてしまう。
私も甘いなと思う。
「春千夜、マスク外して」
「あ? 別に中は汚れてねぇ」
春千夜は口の傷のせいか、マスクを外すのをあまり好まないのを知っているけど、ちゃんと確認しないと気が済まない。
多少なりとも殴り返されていたりするかもしれないし、少しでも怪我をしていたら見過ごせない。
「いーから、外して」
考えているのか、なかなか外してくれない。
「私、春千夜の傷、気にしないよ?」
「俺が……気にすんだよ……」
「そんなに見られるの嫌?」
「ちげーよ。気にしねぇっつったって、やっぱり、その……気持ち悪ぃだろ……」
個人的に見せるのが嫌なんじゃなくて、私が見るという状況を嫌がっているんだ。
彼の優しさが垣間見え、心がふわっと温かくなる。
「春千夜。気持ち悪くなんてないから、外して、ね?」
両頬に手を添えて、なるべく柔らかく言葉を投げると、少し躊躇いながら春千夜はマスクを外した。
「ありがとう」
私はお礼を言って顔を見る。
やっぱり怪我してる。下唇が少し切れていた。
「結構切れてるね。痛そ……」
「んなもん、放っときゃ治る」
「駄目だよ。放ってたら、バイ菌入っちゃうでしょ。ほら、消毒するよ」
文句を言いながらも、大人しくしている春千夜が少し笑う。
嫌な予感しかしない。
「なぁ……お前が舐めて消毒しろよ」
「……春千夜が言うと、冗談に聞こえない……」
「あ? 冗談なわけねぇだろーが」
確かに、春千夜なら本気なんだろう。