第32章 私と恋愛する気ありますか?(謙信様)
「恨み言?いえ、そんなことはひとことも…。
謙信様のことを好きかって聞かれて、私が『見た目は最高に格好いいけど、ちょっぴり怖い』って言ったら、女中さんも最初そう思ったって笑っていました」
謙信「なに…?伊勢がそんなことを言ったのかっ!?」
初めて聞く名前だけど、あの女中さんは伊勢というのだろうか。
謙信様とどんな関係かわからないのに、流石に『見た目は…』というあたりを正直に伝えすぎただろうか。
「え、ええ…言葉を濁したのではっきりそう言ったわけじゃないんですけど、ずっと笑いながら話していましたよ。
あの女中さんは伊勢さんというんですか?良かったらその方のことを教えて貰っても?」
謙信「舞の話を聞いたら教えてやる。
それで全部か。それでどうしてお前は血相を変えて走ってきた?」
「その他といえば謙信様は女嫌いじゃないんですよ、とか。
まだ話していたかったんですが『そろそろあがった方がいい』と言われて、気が付いたら湯殿の火が小さくなっていたんです。
それで女中さんも急いで私の身体を拭いてくれて、脱衣所の戸に手をかけた瞬間に火が消えたんです。
私が『ぎりぎり間に合ったね』って振り返ったら、
……誰も居なかったんです」
思い出して鳥肌が立ち、背中に寒気が走った。
湯殿から持ってきた陶器の器を出すと、謙信様は組んでいた手を放し受け取った。
「念のために脱衣所の明かりで湯殿の中を確かめたんですけど、この馬油が置いてあるだけで誰も居なかったんです。
だから幽霊だったんじゃないかと怖くなって逃げてきたんです」
背後で蓋を開ける音がして、私は謙信様が口を開くまで、じっとして行燈の光は眺めていた。
この部屋の行燈は油が足りているようで焔に揺らぎはない。
ぼんやりと部屋を照らす光は温かな色をしており、じっと見ているだけでなんだか安心できた。
蓋が閉じられる音がして、謙信様は詰めていた息を吐いた。