第32章 私と恋愛する気ありますか?(謙信様)
油が切れそうなのか湯殿を照らしていた火が小さくなっている。
真っ暗になったら大変だと浴槽からあがると、女中さんが手ぬぐいで水滴を拭き取ってくれた。
脱衣所に続く戸に手をかけたタイミングで火が消え、ほうっと息を吐いた。
「ぎりぎり間に合ったね、ありがと………う?」
シ………ン………
振り返ったそこに女中さんは居なかった。
え、と思い脱衣所の明かりを手に持ち、もう一度湯殿に足を踏み入れたけれど床が濡れているだけで誰も居ない。
「女中さん……?」
おそるおそる暗闇に呼びかけたが返事はない。
(また佐助君のどっきり?)
しかし女中さんを使って、しかも裸になる水浴び中に仕掛けるのは佐助君の倫理から完全に外れている。
佐助君のどっきりじゃない。そう確信して歩いていると浴槽の淵に白く小さな陶器が浮いて見えた。
蓋を開けると良い香りのする馬油が入っていて、明かりを掲げてもう一度周囲を確認したけれど女中さんは居なかった。
「どういうことなの、人が消えた?」
夢じゃない証拠にここに馬油がある。
『幽霊』という言葉が頭に浮かび急に恐ろしくなった。
心臓がぎゅうっと縮みあがったあと、バクバクと大きく鼓動して口から出てきそうだ。
「うそー――――――――!?」
脱衣所に駆け戻り、襦袢と寝間着の前を適当に合わせて帯も一番簡単なちょうちょ結びにして謙信様の部屋に走った。
真夜中なのもおかまいなしに廊下をダダダダ!!と走り、声もかけずに謙信様の部屋に転がり込んだ。
「謙信様ぁぁー―――――!」
いつも冷静沈着な謙信様も流石に何事かという顔をしていて、私は何から話していいのかアワアワとするばかりだった。
謙信「騒々しい。いったい何事だ」
「いえ、湯殿で、あの、女中さん…火が…」
無神経が服をきたような私が心霊体験なんて初めてで、大パニックだ。
髪を洗ってくれたほっそりした指の感覚や、背中をこすってくれたたどたどしい手つきは幽霊のものとは思えなかった。
生々しい感覚を思い出して、背後を振り返っても誰も居なくて、目をつぶって震えた。