第2章 悩める獣(ルカ様)
「私のこの身、この命は貴方様のもの。どうぞお好きにお使いください」
という女は、いつも己に向かってそう告げていた。そして、女のその言葉を聞く度に、ルカはどこかで自分がその女の命を捨てることが出来ないだろうと思った。
狂皇子と呼ばれ、敵味方、果ては身内にすら恐れられている己へと向ける眼差しはいつでも愛に満ちていた。話しかける声は柔らかく、対峙している時の顔は常に喜びに溢れていた。そんな女の様子が時折亡き母と重なってしまう。
在りし日の母の眼差しもこのように愛に満ちていただろう。幼い頃の自分へと話しかける声は、確かに柔らかかった筈だ。そして、その表情もいつだって愛に満ちていただろう。何故この女は、異父妹のジル以上に母の面影を感じさせるのだ。そんなものを感じなければ簡単に捨て置く事も出来たであろうにーー。
全く以てくだらない。そう胸の裡で呟く。だからどうしたと言うのだろうか。母の娘であるジルならば致し方ないが、あの女は全くの別人だ。例えいくら母と容姿が似ていようが、所詮は赤の他人である。本来は何一つとして母の面影を感じる筈がない。そういつも思う。そうは思うが、いざあの女を目の前にすると、やはりどうしてもルカは母の面影を感じずにはいられなかった。
一度の首に手を掛けてみた事がある。今にもその首を手折られそうなは、変わらず慈母のような笑みを湛えるばかりであった。
「どうぞ、ご随意に」
その言葉と共に、瞳に陰を作る睫毛がゆっくりと降り、全てが男の手に委ねられる。ルカはすぐにその手を首から離すと頭を振った。らしくもなく己の口からため息が漏れたのを今でも思い出す。
「ただの戯れだ、一々本気にするな」
あの時はそう言ってに背を向けた。思えば、あの女を殺す事も傷付ける事も出来ないだろうと思ったのは、あの時からだろうか。
「そう思うのは、本当にただ似ているからだけなのか……」
簡単に折れてしまいそうな程に細い女の首を思い出しながら、ルカはそう呟いていた。無意識から出た言葉は、まるでそれ以外の理由があるかのようだ。馬鹿馬鹿しくて笑ってしまう。それ以外の理由など何があるというのだ。
ルカはその愚かで無駄な思考を飲み下すように、グラスに入ったワインを一気に飲み干すのだった。