第72章 結婚するまで帰れません(1) 岩泉一
点滴が終わったころは患者は誰もいなくて空も暗くなっていた。起き上がった時に軽く眩暈もしたみたいでまだ覚束ない足取りだった。
「ほら、もう一回乗れ」
「ごめんなさい…。鞄もあるのに」
「どうってことねぇよ。今までだって練習途中で気分が悪くなった部員を担いだりしてたんだからお前ひとりくらいなんともねぇし」
「さすがですね。」
「さっきは悪かった。言い過ぎた」
「気にしてません。だってほんとのことだし。私こそ迷惑かけっぱなしでごめんなさい」
「いーよ。この前の紅茶の礼もちゃんとしてなかったから」
「あれは私がいて欲しかったから。嬉しかった」
嬉しかったって言葉にあの夜の“嬉しいよ?”って言った言葉と柔らかな表情が思い浮かぶ。初めて会った時は可愛いとも思わなったのに、あの時は可愛いって思った自分がいた。
街灯に照らされたて重なった影。背負ってる分だけいつもよりもゆっくりと歩く。
「ねぇ、一さん、お喋りしていいですか?」
「喋るのは別にいいけど、いい加減その“さん”ってどうにかならねぇか?好きに呼べとは言ったけどなんか俺じゃねぇみたいで」
「じゃあ一君って呼んでいいんですか?」
「まぁ二人の時だけはな。なんか慣れねぇ」
「じゃあ今日から一君で。敬語はまだ続けますけど」
「そこはお前の好きにしろ」
「一…君も、私の事好きに呼んでくださいね?お前って呼ばれるのも嫌いじゃないけど」
「じゃあ柳瀬で」
「苗字…、まぁいいやそれでも」
「十分だろ?」
「そうですね…。あ、そういえばさっき飲みかけのジュースって間接キスですか?」
「仕方ねぇだろ。緊急事態だったんだから」
「私、あの時今死んでもいいって思っちゃった」
「何言ってんだよ馬鹿」
「ほんとにそれくらい幸せです…」
「熱中症になって幸せってなんだよ」
「だって」
「何だよ」
「好きなんやもん。…すごく」