第4章 Where does this ocean go?(七海)
はたと小夜子の足が止まる。その横顔はやはり何処か昏いものを抱えているような表情をしていて、今にも消えてしまいそうな程に儚い。
どくりと嫌な鼓動が七海の胸で脈打つ。早足で彼女の傍まで行くと、思わずその華奢な手を取った。柔らかな掌から伝わる熱が、小夜子という存在が確かに此処にいる事を示していて安堵する。彼女の憂いを秘めた瞳が、不思議そうに七海を見上げていた。
「建人さん、どうしたの?」
「特にどうという事はありません。ただ、手を繋ぎたくなっただけですよ」
不思議そうに尋ねてくる彼女にそう返せば、小夜子はにこりと嬉しそうに笑う。それから手をぎゅっと握り返し、華奢な体を七海の方へと寄り添わせてきた。
ああ、何時もの彼女だ。小夜子の行動に七海はそう確信する。肩口に甘えるように擦り付けてきた、彼女の額に口付けを落とした。少し厚い唇から、ふふっと笑い声が零れ落ちる。
「冷たくない?」
上目でこちらを見上げる小夜子の言葉に、思わず七海は首を傾げたが、直後その言葉の意味を理解した。何時の間にか足首まで海に浸かっている。どうやら彼女の傍まで来た時に、海に入ってきてしまったようだ。そんな事にも気が付かなったのは、偏に男の目には小夜子しか写っていなかったという事だろう。傍目にも高そうな革靴が、海水の中に完全に水没し、その輪郭を揺らめかせていた。
「……うっかりしていました」
男の口から珍しい言葉が突いて出る。彼の恋人はそれを聞いて、更にふふっと笑った。
「うっかり屋さんな建人さんって可愛いわね」
からかうような口振りで言われたその科白に、彼は思わず「勘弁してください」と返してしまう。しかし、そんな七海の反応にも、特に小夜子は気を悪くする事はない。ただ、笑ったまま「ごめんなさい」と、あまり申し訳無さそうには見えない謝罪を返してくるばかりだ。
悔しくなって、軽口を叩く唇を奪えば、途端にその顔は夕日と同じ色に染まる。可愛いのは一体どちらの方だ、と七海は思った。こみ上げていくる愛おしさのままに、もう一度口付けをする。唇から柔らかな熱が伝わって来るのを感じた。そしてそれは、七海を再び安堵させてくれるものであった。