第5章 桜 色 の 泪[煉獄杏寿郎]
明日には満開の桜の花で満ちるであろうこの日。
どこからか舞い落ちてきた桜の花弁が一枚、玄関から吹き込んだ春の風に乗って舞った。
たった一枚がふわりと宙に舞う姿は綺麗で儚くて、食事の支度の手を止めて桜の舞を目で追った。
「では、行って参る」
そんな幻想的な舞に気を取られていると、出立を告げる声が屋敷に響いて慌てて厨を飛び出した。
「杏寿郎様! 待って!」
廊下を転げそうになりながら駆けて杏寿郎様の背中に追いついた。それに気付いた杏寿郎様は振り返りにっこりと笑って私に手を差し出した。
「そんなに急ぐと危ないぞ」
「お見送り…したくて…」
焦ったせいで呼吸が乱れている私の頬に手を添えてくれる。
その手は春の風よりも温かい。
「今日はそんなにかからずとも帰れるはずだ。この近くでの任務だ。先に休んでいてくれ。明日は約束の日であろう?」
「はい…楽しみにしております。お気をつけて」
杏寿郎様は頬に添えた手をそのままに、腰を屈めると私の額に唇を寄せた。
「行って参る」
頬から手が抜ける感覚に寂しさを覚え見送るいつもと何ら変わらない日。任務へ見送るのはいつものこと。
でもなぜか今日は胸騒ぎがして、いつまでも背中を見送った。
「嫌ね…せっかく桜の満開が近づいているのに」
屋敷の庭に植わっている大きな桜の木。きっと何十年と人々の営みを見守ってきた。その桜をどれだけの時間眺めていただろう。
「早く帰ってこないかな…」
見送ったばかりの愛おしい人を想ってぽつっと呟き、杏寿郎様のいた気配を残した玄関に入った。
草履を脱いで並べて下駄箱を開ける。明日の約束の為に、お出掛け用の草履を出した。私の物と、杏寿郎様の物。
丁寧に二足端に並べると、明日への期待が高鳴って寂しさが少し和らいだ。
寂しいなんて贅沢なのかもしれない。ここには、杏寿郎様に似た方が二人もいる。
一人は杏寿郎様を少しだけ恐くしたお顔の方。
もう一人は杏寿郎様を幼く、可愛くしたお顔の方。どちらも大好きな存在だ。
そんな二人が、いつまでも中に入ってこないことを心配して玄関まで来てくれた。
「はなどうした、杏寿郎は出立したか」
上がり框に座った私の横にしゃがみ、ちょっと恐い顔を緩ませて心配そうな顔で私を見た。
「はい、先ほどお出掛けになりました」