第3章 曙の空、春の海
清瀬さんの両腕は私の体を包み込み、そのまま胸元へ引き寄せた。
人の体温を直に感じたのは久しぶり。
温かいお湯に浸かっている時にも似た心地よさと、安心感が満ちていく。
その一方で速さを増していく心臓の音は、胸の高鳴りの証だ。
清瀬さんに抱きしめられている。
ほんの数週間前までは、"陸上チームの清瀬コーチ" としての顔しか知らなかったのに。
私の中にスルリと入り込んできた清瀬さんは、氷柱のように冷えて尖ったままだった心を温めて、その形を丸く変えていく。
恐る恐る清瀬さんの背中に手を伸ばした。
鼓動のリズムが指先から伝わり、清瀬さんに届いていたらどうしよう。
清瀬さんが何も言わないから、私も何も言わない。
まっさらな時間の中に、二人分の呼吸だけが繰り返されていく。
少しの間ここに留まっていたくて、私からは手を離さなかった。
清瀬さんがそんな私の心境に気づいたのかはわからない。
抱きしめた手はそのままに、顔を傾けて私を覗いた。
至近距離で目が合う。
この雰囲気、は……。
決して豊富とはいえない恋愛経験であっても、男女間に流れる特有の空気は直感で察知できたりするもの。
思わず、体が固まった。
綺麗な形の唇が、少しだけ口角を上げる。
「しないよ」
キスを予感させた清瀬さんだけれど、互いの額をコツンとぶつけただけですぐに距離を取り、小さく笑う。
「これ以上のことはしないから。安心して」
腕に力を入れてもう一度ギュッと抱きしめたあと、清瀬さんは私を解放した。
とてもじゃないけど言えない。
温もりを失って寂しくなった、だなんて。
「さっきの映画、最後まで見たとしても終電には間に合うか。せっかくだし見てから帰る?」
「…はい」
「実は全然頭に入って来なかったんだよなぁ」
「私も」
「そうか。だったらもう一度最初から見てもいい?」
「はい」
「飲み物冷めちゃっただろ?何か持ってくるよ」
「あ、私が行きます…!」
「いいから。ゆっくりしてて」
清瀬さんは私を気遣ってかそう言い残し、部屋を出て行った。
今更ドキドキしてきた。
清瀬さんて本当に狡い人だ。
あんなに風に優しくされたら……。