第3章 曙の空、春の海
「俺、犬が好きなんだ」
「……犬? 」
「例の共同生活をしていたアパートに、オスの柴犬がいてね。懐いてくれて可愛かったんだ」
清瀬さんが何故犬の話を始めたのかわからなかったけれど、ひとまず耳を傾ける。
「扱いもまあ、上手いと思う。人を寄せ付けず仲間と走ることを拒んでいた野良犬も、時間をかければ心を開いてくれた」
「……?」
頭の中にクエスチョンマークばかりが増えていく。
「今は、ひとりぼっちで泣いている風見さんを、保護したくてたまらない」
拒絶…じゃ、ない……?
清瀬さんの真意が知りたくて、会話を繋げる。
「……私、犬じゃありませんよ」
「そうだな。でも、俺には愛情に飢えて震えているように見えるんだ」
「愛情……」
「ああ。抱き上げて連れて帰って、めいっぱいの愛情で温めてやりたい。その衝動を抑えるのに必死で、困ってる」
そこでようやく、清瀬さんは私を見つめた。
それは、軽蔑でも憐れみでもない、慈愛に満ちた瞳。
「風見さんは人に対して情が深いんだろうな。だから自分の中の淀んだ感情を受け止めきれなくて、心が嫌悪感で溢れかえってしまう」
「……情が深い人間は、あんな怖いことを思ったりしませんよ」
「あの時心の底で何を思ったとしても、口にするのとしないのでは大違いだろう?口にしなかったのは、間違いなく君の意思だ。俺が力づくで止めに入ったか?」
「……」
「大丈夫。風見さんは、ちゃんと思いやりのある女性だ」
こんな私のことを受け止めて、認めてくれた。
それどころか、これまでと変わらず笑ってくれる。
清瀬さんの言葉は、心に付き纏った黒いものを少しずつ剥がしていく。
「ひとつ、俺の頼みを聞いてくれないか?」
真剣に向き合ってくれたお返しに、私にできることならと思い、頷く。
「一度だけ、抱きしめさせて」
「え?」
「風見さんが自分のことを抱きしめてあげられないのなら、俺が抱きしめる」
「……」
「いい?」
いきなりこんなことを言われて、いいも悪いも出てこない。
拒否できるだけの猶予はある。
ただ、決して嫌ではない。
心のどこかでは、この人に抱きしめてほしいと願っているのかもしれない。
「……はい」
やっと届くくらいの小さな声で、そう返事をした。