第3章 曙の空、春の海
―――………
「すみませんでした」
清瀬さんの手をそっと離す。
「落ち着いた?」
ゆっくりと、こちらに顔が向けられた。
清瀬さんの瞳が、真っ直ぐ私を見ている。
改めて自分の失態が恥ずかしい。
「はい…。……あの、さっきの人…例の、元彼で…」
「ああ。君の職場で顔を見たことがあったから、わかった」
私と同じ職場に勤めていたあの人。
担当は短距離チームの選手だった。
だから清瀬さんと直接関わりはなかったはずだけれど、どうやら存在は知っていたようだ。
「ちょっと色々混乱してしまって…」
「うん」
「でもっ、泣いたのは違うんです。未練があるとかそういう涙じゃなくて、私自身の問題で…。衝動的に怖い思考に陥ったというか…女性に対してすごく酷いことを思ったりして…、もう自分が本当に嫌になって…私きっと、清瀬さんのことも騙してる…」
清瀬さんは、横やりを入れたり言葉を遮ったりせず、ただ私が口にする脈絡のない話を聞いてくれた。
そして声に詰まったところで、ようやく私に問いかける。
「俺にできることは、ある?」
「え…?」
「今、風見さんが苦しい気持ちでいることだけはわかる。俺がその心に触れてもいい?」
「……」
「それとも、触れない方がいい?」
ああ……、この人は凄い……。
優しさというひと言では言い現せないくらい大きくて、情が深い人。
他人の繊細な場所に、容易く踏み込もうとはしない。
そしてきっと、今私が二つの選択肢のうちのどちらを求めているのか、本当はもう見抜いている。
このあと、私の方から手を伸ばすだろうということも。
「……清瀬さんと」
「うん」
「話をしたい、です」
「ああ、そうしよう」
「それから…」
どうしよう。
私、まだ清瀬さんへの気持ちがはっきりしていないのに。
思わせぶりなことを言わない方がいいし、我儘に決まってる。
「あ、これを言ったら我儘かもしれない、なんて思わなくていいぞ?君の我儘は、俺にとってはきっと大したことないから」
不思議なことに、清瀬さんがそばにいると気持ちが落ち着きを取り戻す。
自制心を置き去りにして、心ごと寄りかかりたくなる。
何故、清瀬さんのことは信頼できるんだろう。