第5章 秋影に時雨る心、声は見えぬ漣となりて
秋晴れの夕暮れ時、珍しく園十郎は外に出かけて行った。
「お気をつけて行ってらっしゃいませ」
と声をかけるの振り返ることなく門をくぐった。
その様子に肩を落としながら庭の掃除に戻る。
園十郎のいなくなったからの部屋は酒瓶がふたつ転がり、ひとつは割れていた。
几帳面だった父を恋しく思う。
額の痣も、変わった体質も
母と一緒にわたしのひとつであると認めて愛してくださった。
母が亡くなり、父も前のようではない。
家も父が荒れて傷が多く、閑散とした侘しさが夕陽の赤で畳を染める。
その色と空気が一層、胸の苦しみを助長させるようだった。
書斎の机も使われることはないようで、そこに一人鎮座して父を待っているよう。
何もどうにもならないと分かってはいても、
弟の為に、父を制御するため
私が犠牲にならねばならない。
弟は、先日舞台に上がることが許されたらしい。
できるならば弟の出る芝居も見たいと思うのは、身内ならでは当然の事。
しかし、ここを動くことはできやしない。
いろんな思いがひとりでに湧き上がっては
侘しくなってしまった部屋にただ一人
慰めてくれるのは己の目じりから流れる涙くらいだったろう。
「姉上。姉上!いらっしゃいますか」
久方ぶりに聞いた弟の声。
懐かしさのあまり、いろいろ張り詰めていたものを解き放つかのように、その戸を開けたのだった。
そこには、最後に会った時より幾分か背が伸びた弟の姿があった。
「…っ…亮十郎…。大きくなりましたね」
「姉上…」
綺麗な袴姿、整髪料で黒光りする髪。
でも、久方ぶりに見る弟の目には、変わり果てた姉が酷く痛々しく思えたのだった。
「上がりなさい。父上はまだ、戻りそうにありませんから」
亮十郎は、姉の窶れ具合に胸が締め付けられるのをこらえきれず、姉の華奢な腕を引き、己の胸に抱き寄せた。
「なぜ…逃げないのです…姉上…。私が師匠に話を付けますので、また、一緒に暮らしてください…」
「亮十郎…」
心優しく姉を慕っていた弟が、いつかこうして自分を連れて外に出そうとすることは、千鶴も容易に想像できた。
だからとて、今自分が、父の傍を離れてしまえばもっとひどくなるのではないか…
それを危惧している千鶴には実家を出るなどという選択肢はない。