第4章 その女、現か幻か
"笛を売れ"の耳を叩くような声が、頭を地獄で炙ったようにジリジリと思考の動きを封じていく。
瞳孔が縮み、肺に入る呼吸が冷たく感じて、声が一度閉じ込められた気がした。
すぐに我に返り千鶴は、自分を奮い立たせるように迷いを振り切る。
「それでは、父上が二度と、笛を吹けなくなってしまいます。」
震える声、全身の感覚を奪う絶望の言葉が受けいれられず、絞り出すような細い声で、園十郎の先程の言葉を確かめた。
「私はもう笛などいらん!!とっとと取り換えてこい!!」
余りにも剣幕で怒鳴り散らす父に、それ以上問いかけることが出来ず、泣く泣く父の大事にしていた商売道具である笛を受け取った。
それを確認すると、園十郎は家を飛び出して、千鶴は夕暮れの茜が差し込む部屋に一人取り残された。
『笛はもういらん!!』
言葉が強く頭の中を締め付けてくる。
ふと、手元にある笛をぼんやりと眺めると、頭の中に様々な光景が思い浮かんでは消えていった。
初めて笛を吹かせてもらった時、
わたしの笛が届く前まで父に吹かせてもらったこと、
母と舞台に行った時、舞台の奥の囃子方に並んで笛を吹いていた時の貫禄ある姿
笛が届いてからもずっと、わたしに習い聞かせていただいた時
稽古場で門下生と共に笛を吹く姿
縁側で奏でたこの笛の音色、そのときの真剣な父の眼差し
笛を持つ手が強くなり、カタカタと震える。
滲みこぼれていく涙がぽつりと手の甲を濡らした。
目の前がゆがんで暗闇と落ちていくのは夕暮れに差し掛かった空の色と同じようだった。
目の奥がねじれるように痛い
頭の中の血管が悲鳴を上げるようにジンジンと痺れる。
網膜は暗闇をそのまま映し出し、ふと開け放たれた障子の向こうに白々と冷たく光る孤月が千鶴を呼ぶように照らした気がした。
月が操るように、その体は引き寄せられ、外へと歩み出す。
「黒死牟様...。」
初めてお会いしてから、笛を吹いたり、名前を呼んでも、彼の気配はしても姿を見せてはくださらない。
今や、松橋の家や看板を守る故に弱い心を晒せない千鶴にとって、唯一の心の拠り所である男を呼んだ。
屋根の上、孤月が照らす黒い海に、ただただ虚しく笛の音が響き渡る。同時に荒々しく木枯らしが吹き抜けていった。