第16章 束の間の安らぎ
胤晴
「俺が君に頼んだ事は…結莉乃を追い詰めているか?」
結莉乃
「…え?」
突然掛けられた言葉に結莉乃は驚いて胤晴を見上げる。胤晴の視線は伸ばされた結莉乃の脚へ向いていた
胤晴
「君だから頼みたいと思ったが…その考えが君を苦しめていたらと…」
そう不安げに告げられたそれに結莉乃は膝を曲げると軽く抱えて笑う
結莉乃
「何言ってるんですか?私は経験した事ない舞が出来て嬉しいですよ。それに…此処へ来たばかりの時は異物だったのに気が付けば胤晴さんからこんな大役を任せてもらえる様にまでなれて…私は本当に嬉しいんです」
胤晴
「結莉乃…」
結莉乃
「絶対に今よりも綺麗に舞ってみせます。それで、皆を驚かせます」
胤晴
「…やはり君に頼んで良かった」
漸く胤晴の笑みが見られて結莉乃は安堵する
結莉乃
「今まではこの舞を誰がやっていたんですか?」
胤晴
「風月だ。…毎年、彼女が披露していた」
今までであれば風月の名を聞いても結莉乃の心はざわつかなかっただろう。だが、胤晴が好きだと自覚してから初めて聞く風月という大きな存在の名に、結莉乃の喜びで満たされていた心に黒い墨を落とす
結莉乃
(こんな言い方したらいけないの分かってるのに…。亡くなっているとその人との思い出が強く大切で大きい。それが好きな人であれば…より大きくて…)
こんな気持ちを持ったら駄目だと分かっているが、どうしても結莉乃はそう考えてしまう。胤晴が自分を見てくれる事は無いのかもしれないと膝を抱えたまま結莉乃は自身の脚の指を見下ろす
結莉乃
「…胤晴さんにとって風月さんはとても大切なんですね」
胤晴
「嗚呼…強くて美しい女性だ。俺は彼女の舞が好きなんだ」
好きなんだ、過去形では無いその言葉が結莉乃の中に落ちた墨は…水に落ちた墨の様に徐々に広がっていく
比べる方がおかしい、そんなの結莉乃が良く分かっている。だが、胤晴からの言葉が何だか苦しくて僅か下唇を噛む