第13章 パステルピンク《今牛若狭》●
どれくらいの時間が経っただろうか。
トイレの個室に籠り、なるべく何も考えずに膝を抱えながら握りしめていた携帯が、一瞬だけ震えた。
ハッとして携帯を見れば、1件のメール。
若狭くんから「終わった」と、一言だけ。
トイレを出た瞬間に名前を呼ばれて、振り向けば若狭くんがいた。
首筋に張りついている髪の毛を見るかぎり汗はかいたようだけど傷はひとつも見当たらなくて、思わずホッと息が漏れる。
「何ともない?」
「…うん、私は平気」
体は平気。擦り傷すらない。
でも心はそわそわして、落ち着かなくて…若狭くんの顔をまともに見ることができない。
「今日は帰ろ。あんま遅いと真ちゃん心配するデショ」
けどそれを悟られないように、「家まで送る」と言って差し出してきた若狭くんの手をとり、日が沈みかけた街路をゆっくりと歩き出した。
今はまだ、何も知らないフリをしよう。
家の前まで送ってくれた若狭くんの背中を見送り、ただいま、と住み慣れた家の玄関で靴を脱いでいれば、廊下の奥から笑い声が聞こえてくる。万ちゃんとエマは、万作さんとお風呂に入っているらしい。
少し遅れて、どこか気だるげなおかえりが聞こえてきた台所へ行けば、夕飯後の食器を洗っている真ちゃんがいた。
「デートどうだった?」
振り向かず、手も止めることなく私に問うてくる真ちゃんの背後に、無言で近づく。
音もなくその広い背中に額をくっつければ、ようやく真ちゃんの動きが止まった。
薄いシャツ越しに、真ちゃんの体温と鼓動が額に伝わってきて。
嗅ぎなれた身内のにおいは落ち着くはずなのに…今日の出来事が、そうさせてくれない。
「…どした、何かあったのか?」
「……なんで、言ってくれなかったの」
俯く視界に入ったシャツの裾を指先でつかんで、わずかに引っぱる。
私の言葉にぴくりと反応した真ちゃんは、「あー」と少しだけ掠れた声を出して天井を仰いだ。…私の言葉の意味を察したらしい。
「そっか。わかっちゃったか」
「…真ちゃん、なんで…?」
「んー…お前を思ってのことだったんだけど…オレ、選択間違ったみてぇだな」
言うか言わないか、二択しかねぇのになぁ。
自分を嘲笑する真ちゃんは、水道の蛇口をひねって手の泡を洗い流している。