第11章 梵天の華Ⅲ
──本当は、わかっていた。
これが、何故か遅れてやってきた違法薬物による幻覚作用だということを。
なぜならここに来る前…地獄のようなあのビルの一室で、嫌というほど見た光景だったから。
もちろん、こんな時の対処法なんて知らない。
…なら、耐えるしかないのだろうか。
こんな時に限って、春千夜さんはお仕事でいない。
昨夜に「明後日の夕方頃まで帰らない」と言っていた。
なんてタイミングの悪い…。
…あ、でも。
定期的に梵天の幹部の誰かが、様子を見に来るとも言っていたような。
あれから、何時間経ったのか。
もしかしたら数分かもしれない。
耳障りな虫の足音と、私自身でも不気味に感じる呟き声と荒々しい呼吸音だけ響いていた寝室に、ガチャリとドアが開く音がした。
誰かいるの?
でも、目を向けることなんてできない。
ドアや部屋にはまだ、虫がたくさんいるはずだから。
話し声が聞こえてきたけど、あまり聞き覚えのない声だなと思った。
声が少し似ているだけで、いるのは一人じゃなくて二人。
梵天の幹部であることは間違いないし、特に怯える必要はないけれど。
震えが止まらない。
大量にいた虫が嫌で、怖くて、脳裏に焼き付いてしまって、口の動きも止まらない。
どうしよう。
助けて欲しいのに、それすら言えないなんて…
「具合でもわりぃの?」
一人の気配が近づいてきて、ベッドの横でしゃがみ込む布ずれの音が聞こえる。
少し間をあけてもう一人近づいて来たとき、一瞬だけ息が止まりそうになった。
どこか覚えのある、ふんわりとした優しい香り。
これはきっと、香水。
柔軟剤よりも濃くて、でも嫌じゃない、しつこくない香水の香り。
ぽん、と。
顔を膝に埋めていた私の肩に触れられて、確信してしまう。
「ぇ、ちょ、」
「ヒック、ぅ、え〜ん…っ」
「な、なに、は!?」
思わず涙が溢れて、その香りに向かってすがりついてしまうほど。
懐かしくて…会いたくて、毎日のように思い続けるほど大好きで、ずっとその香りをそばで感じていたかった、私の…
「おにぃ、ちゃん…ッ」
2年前に生き別れてしまった、大好きなたった一人の、兄の香り。