第5章 【第四訓】喧嘩はグーでやるべしの朝の話
男は困ったように眉間に皺を寄せると、視線を外した。
ついてもいないテレビを注視する。
数秒の間を挟み、男は小さく言葉を漏らす。
「……知らねェよ。俺ァ、お前のことなんて知らねェ」
面倒臭そうに耳をほじくりながら、背凭れに体を預ける。
「悪ィが、他の奴、当たってくれ」
男は大袈裟に溜め息を漏らす。
一瞬の間、呆気にとられたあと、○○は我に返る。
「他の奴なんているわけないでしょ!」
○○は男に詰め寄る。
男は○○と視線を合わせずに呟いた。
「思い出したくねーんだよ。昔のことは」
ようやく自分を知る人に巡り合えたというのに、その人はこんなにも非協力的。
○○は睨みつけるように男を見た。
男は○○の背後にある、何も映らないテレビに目を向けている。
「――ッ」
突然、○○に襟元を掴まれた。
目の前にある○○の顔。鬼の形相。
どんな罵声をあびようと、口を割るつもりはない。
だが、○○の口から出たのは怒りに任せた言葉ではなかった。
「お願いします。教えて下さい」
○○は男の着物から手を離した。
崩れるようにその場に膝をつく。
「父や母や……待ってくれている人がいるなら、私は無事だって、知らせたい」
男の目の前にはうなだれた○○の肩がある。
話すつもりはなかった。だが、その様を見て、一つだけ伝えたくなってしまった。
「いねーよ」
○○は顔を上げた。
目の前にある男の瞳は、真っ直ぐに○○を見ていた。
「お前に家族はいねェ。今のお前は、天涯孤独の身の上だ」
あの日の○○を、今でも鮮明に覚えている。
母親を殺され、屍のように成り果てていた、○○の姿を。