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3月9日  【A3】

第6章 丁子桜


 その日の夜恒例となりつつある至さんの夜食を、いつも通りみんなそれぞれが部屋に戻った後に103号室へ運ぶ。

 ー…とんとん

 返事も、キーボードを打つ音も、もちろん罵声もなくて、稽古で疲れて寝てしまったのかと思いつつドアを開ける。

 「至さん、お夜食おもちしたんですけど。入りますよー」

 ー…かちゃっ

 薄暗く光っているパソコンがさっきまでそこに彼がいたことを知らせる。

 ことっといつも通り散らかったテーブルの上にそれを置いて、散らばった雑誌を少しまとめる。

 いるはずの主人が居ない部屋はなんとなく冷たくて嫌だな…

 そう思って立ち上がり、ドアノブをひねる。

 するとどこからか声がして…
 ダメだと思いつつ、耳を澄ます。

 いづみちゃんと、至さん?
 バルコニーの上から聞こえるみたいだ。

 "辞めようとおもっている"

 そんな話が聞こえてきて、この間の至さんの思いが本当だったことを知る。
 嫌な予感も当たってしまった。

 手足が冷えてくのを感じる。

 おかしいな、もう春のはずなのに…

 稽古に出たら、私はその約束守ったのに。

 なんて責めるようなことをおもってしまう。

 辞めないも、辞めたいも、至さんだけの感情で私はそれに言及しちゃいけない。

 …できない。
 この劇団に来てくれたことに、歓迎はできても、

 辞めることを、引き止めることはできない。

 至さんのティボルトをちゃんと見たかった。
 幸くんの衣装をきて、
 堂々と舞台に立って、
 みんなと笑う至さんを見たかった。

 そう思ったら力が抜けて、急に立てなくなった。

 ……やっぱり、居なくなっちゃうんだ。

 どれだけ必要と思っても、
 手放したくなくっても。

 逆にここまでよく出来すぎてたんだ。

 今まで散々打ちひしがれてきたのに、ちょっといい思いをしたからって、バカみたいだ。

 「なにしてんの、人の部屋の前で。」
 「…たるさ、、?」
 「…っ、」

 至さんの顔が歪んでいく。
 だめ、そんな顔させちゃ、ダメなのに……

 「ははは、」

 思ったよりも乾いた声が出る。

 「…芽李?」

 取り繕うのは、慣れてるはずなんだ。
 こう言うのは、慣れてるんだ。

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