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3月9日  【A3】

第31章 普賢象


 茅ヶ崎に伝えた通り、彼女との生活は、そう悪くなかった。

 …まるであの頃みたいで。

 偽装夫婦としてやっていく前、一度深く傷つけた時でさえ、最後には彼女は俺に対して笑って見せた。

 こんな俺に"優しい人"と言って。

 …茅ヶ崎が惚れるのだって無理はない。

 献身的で、どこか抜けてて、強がりで、放って置けない。
 それが俺が受けた印象で、好きになるなと言ったのは俺なのに、彼女の言葉ひとつで心が軽くなるような瞬間がいくつもあった。

 だから、東京と北海道の往復さえ苦にならなかった。

 …だから、彼女に害が及ばないように、しらみ潰しのように念入りに、任務を全うし続けた。
 彼女が心から笑える場所に、早く彼女を戻してあげたい一心で。

 …ってずいぶん俺も、絆されたな。

 「先輩、起こしてくれてもよかったじゃないですか」
 「俺は起こしたよ?それに、寮母さんがお前を起こしに行ったから」
 「せっかくの同室なのに」
 「とか言いながら、臣にも昨日頼んでたよな?」
 「まぁ。…だって、先輩優しくないですから」
 「へぇ…」
 「嘘、嘘です。なんですか、その意味深な顔」
 「別に」

 そう、別に俺は優しくない。

 「っていうか、先輩。聞きたいことあるんですけど」
 「なに?」
 「うちの自慢の寮母さんと、」
 「あぁ。なに、牽制?」
 「な?!」
 「心配するな、興味があったらとっくに落としてる」
 「え?!…って、先輩そんな冗談も言うんですね」
 「さぁね?ほら、そろそろ時間だろ」
 「そうだった、そうだった。じゃあ、また」

 冗談ならまだマシだったかもな。
 なんてね。

 『…みんなの前では、千景さんのお芝居に付き合ってあげますよ』
 『でも、2人の時は別ですから』
 『何も言ってくれなかったから、怒ってるってこと。…心配してました、だから、…怒ってます』

 朝にした会話がまだ自分の中に残っていることが、もどかしい。

 "酒井芽李"は、ただのターゲットだ。
 そう自分に言い聞かせていることが、異例の事態で、戸惑っているなんて…。

 やめた。

 考えるのをよそう。
 まずはディセンバー、あいつをどうにかしないといけないのに。

 『だって、まだ好きでしょ。…茅ヶ崎のこと』

 表情豊かな彼女の歪んだ顔が、真実として物語る。
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