第31章 普賢象
茅ヶ崎に伝えた通り、彼女との生活は、そう悪くなかった。
…まるであの頃みたいで。
偽装夫婦としてやっていく前、一度深く傷つけた時でさえ、最後には彼女は俺に対して笑って見せた。
こんな俺に"優しい人"と言って。
…茅ヶ崎が惚れるのだって無理はない。
献身的で、どこか抜けてて、強がりで、放って置けない。
それが俺が受けた印象で、好きになるなと言ったのは俺なのに、彼女の言葉ひとつで心が軽くなるような瞬間がいくつもあった。
だから、東京と北海道の往復さえ苦にならなかった。
…だから、彼女に害が及ばないように、しらみ潰しのように念入りに、任務を全うし続けた。
彼女が心から笑える場所に、早く彼女を戻してあげたい一心で。
…ってずいぶん俺も、絆されたな。
「先輩、起こしてくれてもよかったじゃないですか」
「俺は起こしたよ?それに、寮母さんがお前を起こしに行ったから」
「せっかくの同室なのに」
「とか言いながら、臣にも昨日頼んでたよな?」
「まぁ。…だって、先輩優しくないですから」
「へぇ…」
「嘘、嘘です。なんですか、その意味深な顔」
「別に」
そう、別に俺は優しくない。
「っていうか、先輩。聞きたいことあるんですけど」
「なに?」
「うちの自慢の寮母さんと、」
「あぁ。なに、牽制?」
「な?!」
「心配するな、興味があったらとっくに落としてる」
「え?!…って、先輩そんな冗談も言うんですね」
「さぁね?ほら、そろそろ時間だろ」
「そうだった、そうだった。じゃあ、また」
冗談ならまだマシだったかもな。
なんてね。
『…みんなの前では、千景さんのお芝居に付き合ってあげますよ』
『でも、2人の時は別ですから』
『何も言ってくれなかったから、怒ってるってこと。…心配してました、だから、…怒ってます』
朝にした会話がまだ自分の中に残っていることが、もどかしい。
"酒井芽李"は、ただのターゲットだ。
そう自分に言い聞かせていることが、異例の事態で、戸惑っているなんて…。
やめた。
考えるのをよそう。
まずはディセンバー、あいつをどうにかしないといけないのに。
『だって、まだ好きでしょ。…茅ヶ崎のこと』
表情豊かな彼女の歪んだ顔が、真実として物語る。