第31章 普賢象
「逃げる?」
「はい」
返されないから、きっと…。大丈夫だ。
「ということで、卯木さん。この話はもう終わり、朝ごはんできてるので、談話室でどうぞ。
私、臣君に頼まれて、至さんのことを起こさなきゃいけないので」
ポンと背中を押して、ドアの前から避けさせる。
「…」
「至さん、入りますよ」
本当は心臓がバクバクしてるのに、何も気にしてないふうを装って、ドアを閉める。
二つ並んだベット、布団だけはちゃんとあって…でも、千景さんの物が少ない。
またどこか行くつもりなのかもしれない。
それに、"復讐"って言葉の意味、私はまだわからない。
「至さん、起きてください。朝ごはんできてます」
「…んん」
モゾモゾと布団が動いてる。
「…あとごふん」
寝起きだから低い声。
それなのになぜか幼くて、キュンとしてはいけないのに、少しだけ胸がなる。
千景さんとあんな話したばかりなのに、私は案外嘘つきだ。
「そうしてる間にも、万里くんにゲームの順位抜かされちゃいますよ」
「んー…」
「…ほんとに、どうしようもない人ですね。千景さんも…」
ピクッと動きが止まる。
…なんて、まさかね。
「卯木さんも、もう起きて談話室行っちゃいましたよ。
至さん、臣君に頼んだんでしょう?」
布団をめくってでも起こそうと、ベットのハシゴの3段目に足をかけたとき、ばさっと布団がめくれて複雑な顔をした至さんの目が私を捉えた。
「…芽李」
「どうしたんです?何か、嫌な夢でも見ました?」
あちこちにたった寝癖が、至さんらしくなくて少し笑える。
「…夢、ならいいんだけど」
「寝ぼけてます?」
「…」
「至さん?」
ガシガシっと、あたまをかいた至さんが変な顔をするから思わず息を呑む。
まんまるな目が、泣きそうなうさぎみたいで、それは至さんらしくないでしょって言いたくなった。
「お腹すいたっぽい」
「臣君と美味しいの作りましたよ」
「うん…ありがと」
「はい。じゃあ、先行ってあっためときますから、ちゃんと寝癖まで直してきてくださいね」
後ろ髪惹かれてはだめだと、梯子を降りる。
部屋を出た時にはもう、千景さんの姿もなかった。
やましくなんか、ない。
何もかにも。