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3月9日  【A3】

第31章 普賢象


 「逃げる?」
 「はい」

 返されないから、きっと…。大丈夫だ。

 「ということで、卯木さん。この話はもう終わり、朝ごはんできてるので、談話室でどうぞ。
 私、臣君に頼まれて、至さんのことを起こさなきゃいけないので」

 ポンと背中を押して、ドアの前から避けさせる。

 「…」
 「至さん、入りますよ」

 本当は心臓がバクバクしてるのに、何も気にしてないふうを装って、ドアを閉める。
 二つ並んだベット、布団だけはちゃんとあって…でも、千景さんの物が少ない。

 またどこか行くつもりなのかもしれない。

 それに、"復讐"って言葉の意味、私はまだわからない。

 「至さん、起きてください。朝ごはんできてます」
 「…んん」

 モゾモゾと布団が動いてる。

 「…あとごふん」

 寝起きだから低い声。
 それなのになぜか幼くて、キュンとしてはいけないのに、少しだけ胸がなる。
 千景さんとあんな話したばかりなのに、私は案外嘘つきだ。

 「そうしてる間にも、万里くんにゲームの順位抜かされちゃいますよ」
 「んー…」
 「…ほんとに、どうしようもない人ですね。千景さんも…」

 ピクッと動きが止まる。

 …なんて、まさかね。

 「卯木さんも、もう起きて談話室行っちゃいましたよ。
 至さん、臣君に頼んだんでしょう?」

 布団をめくってでも起こそうと、ベットのハシゴの3段目に足をかけたとき、ばさっと布団がめくれて複雑な顔をした至さんの目が私を捉えた。

 「…芽李」
 「どうしたんです?何か、嫌な夢でも見ました?」

 あちこちにたった寝癖が、至さんらしくなくて少し笑える。

 「…夢、ならいいんだけど」
 「寝ぼけてます?」
 「…」
 「至さん?」

 ガシガシっと、あたまをかいた至さんが変な顔をするから思わず息を呑む。

 まんまるな目が、泣きそうなうさぎみたいで、それは至さんらしくないでしょって言いたくなった。

 「お腹すいたっぽい」
 「臣君と美味しいの作りましたよ」
 「うん…ありがと」
 「はい。じゃあ、先行ってあっためときますから、ちゃんと寝癖まで直してきてくださいね」

 後ろ髪惹かれてはだめだと、梯子を降りる。

 部屋を出た時にはもう、千景さんの姿もなかった。

 やましくなんか、ない。
 何もかにも。
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