第31章 普賢象
「千景さんだけです」
「笑っちゃうな」
「なにか、面白いですか?」
「あぁ。とっても、…君が、おかしなことばかりいうから。純粋なふりして。…俺は、全部知ってるんだ」
「私が、観察対象だったから?…ですよね」
千景さんの目に、負けたくない。
「そういうこと」
「で、…全部って何を知ってるんですか?」
「言っていいの、ここで」
「どうぞ?」
「茅ヶ崎、起きて聞き耳立ててるかもよ」
「別に、聞かれて困るようなことないですから」
「ふーん、じゃあ。言うけど、俺と君が一緒に過ごした数年。俺は君を好いていたわけだけど、どうして抱かなかったんだと思う?もちろん、そういう意味で」
言われた時に、グッと心臓を掴まれたような感覚になる。
「まぁ、もちろん。君が俺に絆されてなかったのもあるけど」
そっと耳元に当たる息づかい。
"俺が君に汚されたくなかったからだよ"
どくどくと心臓が音を立てる。
「この意味、わかる?」
"汚された君に触れられたら、"
あぁ、こんなこと…言わせてる。
人の傷をえぐれるほど、強い人じゃないのに。
「だから、なんですか?」
「俺の言葉じゃ、泣かないんだ?もう一回くらい、君の涙見てもいいって思ってたんだけど」
「私、もう千景さんには泣かされませんよ。だって、千景さんが私を観察していたのかもしれないけど、その分、私だって千景さんといたんだから、お芝居の上手なあなたでも、一緒にいたらボロだって出ます。
あなたの本質を100知らなくても、少しならわかるつもりです」
千景さんの顔が少し歪む。
ほら、そう言うところ。
「私、寮には住みません。少なくとも、あなたが結んだ契約が切れるまでは。
…千景さん。
私、…私がもし今でも至さんのことを好きでも、まだあなたとちゃんと向き合ってないから、だから、ちゃんと弁えます。
あなたが本当に私のこと要らないっていうなら、ちゃんと向き合って、納得させてください。
それから、」
「まだあるの」
ポケットに入っていた鍵の一つを取り出す。
「これ、あの部屋の鍵」
「どう言うつもり?」
「咲に一つ渡しちゃったから、改めて合鍵作ったんです。あなたのために」
「…」
無理やりに、握らせる。
「逃げたい時、来てもいいですから」