第31章 普賢象
「悪い、芽李さん。至さん起こして来てくれないか?」
私がカンパニーに戻ってきて、数日がたった。
朝8時、夕飯の下準備まだ終えて、臣君がエプロンを外しながら言う。
「あ、そっか。臣君、今からお仕事?」
「そうなんですよ。至さん、今日は仕事午後からみたいで、昨日の夜起こして欲しいとは言われてたんですけど」
「そういうこと。うん、分かった。任せて」
「お願いします。じゃあ、行ってきます」
「あ、待って。お弁当」
「そうでした。ありがとうございます」
臣君の背中を見送って、私は久しぶりに103号室の部屋の前に立つ。
至さんの城。
そっと、その部屋の番号をなぞる。
その時ガチャっとドアノブが動いたから、パッと手を離した。
見開かれた目はお互い様か。
隙間から見えた、アイスブルーの目。
至さんの部屋から出てきた、千景さん。
そっか、と。
1人納得する。
千景さんもなかなか顔を合わせないけど、もう寮にいるんだ。
「…おはようございます」
「あぁ、…えっと。寮母さん」
千景さんが後ろ手にドアを閉めたことを良いことに、そして、至さんが起きてないことをいいことに、私は口を開く。
私は少しだけ、怒ってる。
「…みんなの前では、千景さんのお芝居に付き合ってあげますよ」
「…」
「でも、2人の時は別ですから」
「…どう言う意味?」
「何も言ってくれなかったから、怒ってるってこと。…心配してました、だから、…怒ってます」
「…ふっ、」
「それに、私と別れたいなら、公式的な文書だって必要だと思うんです。ハンコも直筆もしてないから」
「そうだね」
「そうだねって…ってことは、…まだ。まだ終わってないですよね、私達は」
「案外、しつこいんだ」
「頑固ってよく言われます」
「そうみたいだね。…でもさ、終わってる方が都合いいんじゃない?君は」
そっと、細い冷たい指が私の頬に伸びる。
こんなふうに触られたの、初めてだ。
「どうして?」
「だって、まだ好きでしょ。…茅ヶ崎のこと」
「この間からそればっかり」
「本当のことだと思うんだけど」
「好きだとして、私が浮気できるようなタイプに見えますか」
「俺とそういう仲になった君がそれをいうの?」
「ちゃんと名前を持った関係は…」