第30章 駿河台匂
「だから、特別じゃない」
それはきっと、私のための言葉で。
「うん」
「安心した?」
「少しだけ」
「ふっ、…あ、そうだ。道案内だけよろしくね、」
「うん」
案内をするために運転席の方に少し身をのりだして、そのとき香ったシャンプーの匂いにドキッとして。
助手席よりも近い気がした。
夜だから人通りも少なく、道も空いてる。あっという間の帰り道だった。
「ここ」
「そう。良いところ住んでるね」
「うん、まぁ」
「旦那さんと選んだの?」
「…うん」
さっきからずっと曖昧な返事。
至さんに千景さんのこと聞かれるのが、少し嫌だ。
「いいね。…じゃあ、また明日」
「うん」
その言葉に押されるように、車を降りる。
窓も開けずに再び走り出した車を、私はテールランプが見えなくなるまで見てた。
「…ありがとうって言えばよかった」
つぶやいた言葉は、暗闇に消えて。
自分の部屋に戻って、その静けさにぐっと寂しさが増す。
「甘えればよかったかな…」
いづみちゃんの言葉に甘えさせてもらって、寮に泊まったほうがよかったかもしれないと思いながら荷物を置いて、リビングのソファに身を沈める。
こんなことで落ち込んじゃだめだ、これからはこの寂しさと向き合わなきゃいけないんだから。
…だって、自分で決めたことだ。
気まぐれな千景さんが、いつかふと戻ってきた時に帰る場所を残しておいてあげたいと、そう勝手に決めたのは私だ。
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ーーー
ソファに横になって気づいたら、朝になってた。
「ふぁあっ、あぁっ!!」
時計を見て驚いた。
今日からまた、MANKAIカンパニーの寮母…じゃないか、お手伝いとして雇ってもらえるんだもん、時間は守らないとと思っていたのに、今から準備したんじゃ結構ギリギリだ。
適当に身支度を済ませて、部屋を出る。
ちょうどよく天鵞絨町行きのバスがでるところで、慌てて駆け込む。
最寄りのバス停で降りて、走れば間に合うかとほっと一息ついて、空いてる席に座る。
今日はなんだかとてもいい天気で、いいことがありそうだと単純に思った。
バス停について早歩きで劇場の方に向かえば、入り口はもう会いていて、懐かしいロビーの香りに少し胸が鳴った。