第10章 お代は要りません《前編》◉相澤消太
これ以上此処に居ても時間の無駄だ、そう諦めて足を踏み出した俺の服を遠慮がちに彼女が掴む
困り果てたその顔が余りにも健気で、数秒前まで心を占めていた嫌悪感や苛立ちすら脆く崩れ去っていくようで情けない
「あの、わ、私!イレイザーヘッドの大ファンなんです・・」
「・・はぁ、懲りない人ですね」
「ほ、ほんとうです!」
先生の前で平静を装うの大変なんですから・・!、
そう言って彼女は鞄からスマホを取り出すと、それを此方に差し出して
照らされたロック画面には、学園祭の時だろうか、行事の際に撮った彼女と俺とのツーショットが表示されている
確か山田がいつもの悪ふざけで仕組んだものだったと記憶しているそれには、不機嫌そうに此方を睨みつける俺自身と、直立不動で見るからに緊張している様子の彼女が写っていた
「こんな画面、誰かに見られたらまずいじゃないですか・・」
だからこんな時間でも携帯取りに帰って来たんです、そのか細い声は音の無い部屋でもぎりぎり俺の耳に届くくらい小さなもので
「毎日この写真見て仕事頑張ってるんですよ・・」
なんて泣きそうな声で言うもんだから、柄にも無く面食らってしまった
「・・マジか」
じわじわと顔に熱が集まるのをどうにか誤魔化そうと捕縛布に顔を埋める
ちらりと彼女を盗み見ると、同じようにマフラーに隠れた紅い顔が見えた
「お名前の件は、その、恥ずかしくて」
憧れの人なので畏れ多いと言いますか・・、もじもじと下を見て話す彼女は急に俺と目を合わせなくなって
残業続きの疲労のせいに違いない、そんな言い訳を自身に落としながら、心の中に生まれ始めた多少の加虐心
いつも優雅に微笑んでいる彼女の狼狽える姿が心を騒つかせて、俺は一歩近づくと腰を曲げ目線を合わせた
「呼んでみてください」
「へ、!?」
相澤です、なんて、思わず上がりそうになる口元を捕縛布に隠してじっと彼女を見つめる
何か言いたげに開いた口は戸惑いを隠すように結ばれたが、数秒後、意を決したように彼女は声を絞り出した
「・・・あ、あいざわ、せんせ」
「もう一回お願いします」
「・・あ、相澤、先生」
どう抑えても上がる口元を手で覆う
到底認めたく無いほどの幼稚な満足感、そして予想外の展開、ただ目の前の彼女を手に入れるにはこの機を逃す手はないだろう