第10章 お代は要りません《前編》◉相澤消太
彼女はなぜコイツのことを「山田先生」と呼ぶのだろうか
「山田」と呼ぶのは香山さんと俺くらいであって
生徒たちですら、プレゼントマイクの本名が山田ひざしであることを知らない奴らも居るのではないかと思うくらいには、この男の本名は浸透していないのだ
“———— 無理をし過ぎないで下さいね、イレイザーヘッド先生”
耳に残る音は穏やかで心地が良いのに
その声に呼ばれる度、縮まらない距離を実感している自分がいる
挙動すらいちいち煩い隣の男にちらりと目を遣ると、鼻歌を歌いながら規則的に赤ペンの音を響かせていた
「ミッドナイト」「セメントス」「オールマイト」
ヒーロー名で呼ばれている同僚たちの顔を浮かべる、もちろんそこには何の違和感も無い
一方「イレイザー」と呼ぶのは生徒の中では心操くらいだろうか、
受け持ちの面々には大方「相澤」と呼ばれることが常であり、彼女にヒーロー名で呼ばれるたび何とも形容し難い違和感を感じているのかもしれない
「っハァーーー!やっと終わったぜ、オレ先帰るけど大丈夫そ?」
「・・・・」
「待っててやるから飲み行こうぜ?!」
「・・・・」
「今日も今日とて無視シヴィーーーーッ!」
いや、どうでもいい、そう、どうだっていいのだ
これは紛れもなく時間の無駄だ、くだらない、くだらなさすぎる、時間は有限、
小さく舌打ちをして見上げた時計は既に22時を差している
最後まで騒がしい山田が去った職員室は、殆どの明かりが消え俺の上だけが煌々と白く光って
まだまだ終わりそうに無いそれを部屋に持ち帰る決心をして、大きな溜息をつくとパソコンの電源を落とした
「あ、イレイザーヘッド先生・・っ」
肩を回して椅子から立ち上がったその瞬間、ガラリと音を立てて背後の扉が開くと控えめなその声が耳に届いて
帰るところなのだろうか、コートを着た彼女は俺を見て気まずそうに会釈をすると静かに部屋に入り引き戸を閉めた
「・・こんな時間にどうしたんですか」
「携帯を忘れたことに気がついて、戻って来たんです」
お恥ずかしい、そう言って下を向いて微笑んだ彼女の鼻先は寒さでうっすらと色付いていた