第3章 水泡に口付ける
こうやって、全く気配を悟らせずに現れることが可能な人物を、和泉は生憎一人しか知らない。
黒子テツヤ。
空色の髪と瞳を持つ、中等部に居た頃の物静かな同級生。
異常なまでに影が薄いため、近くにいた彼に気付けずに驚いたことは、数え切れないほどあった。
でも、彼がここに来るはずはないのだ。
この帝光は、彼にとっては、おそらく最も関わりたくない場所以外の何物でもない。
現に、去年のある時期を境に、黒子はふっつりと学校に来なくなってしまった。
卒業式には参加していたが、ほとんど不登校に近い状態にあったと記憶している。
……なら。
正面の、この人物は、誰なのか。
先ほどの声からすれば男性だろう。
和泉は意を決して、そろりと顔を上げる。
相手がちょうど逆光になる位置に立っていたので、眩しさに思わず目を眇めた。
それも初めのうちだけで、徐々に相手の姿が見えてくる。
こちらをニコニコと見下ろしていたのは、やけに白い人物だった。
まず、着ているブレザーが白い。
これは別に、帝光の制服だから不思議でも何でもない。つまりは生徒なのだろう。
薄いグレーのカッターシャツの首もと、本来ならネクタイの結び目がある位置に、年季の入った風情の懐中時計と思しきものが下がっていて、それがアクセントになっていた。
和泉が一番驚いたのは、彼の髪だ。
まだ誰にも踏み荒らされていない、積もったばかりの雪のような色をしている。
それが逆光のおかげで筋のように煌めくので、和泉には彼が後光を背負っているように思えた。
多分、迷子の最中に出会えたからそんな見え方になったのかもしれないが。
「なんだ、リアクションが薄いな」
一言も発さず凝視してくる和泉に退屈を感じたのか、白い彼は真顔になる。
髪とは違い、彼の双眸は真っ赤だった。
和泉の脳内で、勝手に「ウサギくん(仮)」という可愛らしいあだ名を設定されたことを知らない彼は、そのままストン、と和泉の隣に腰を下ろした。