第2章 杏子色に導かれて〈不死川実弥〉
かれんと実弥は名残惜しそうにそれぞれのホームに向かった。かれんはちょうど来た電車に飛び乗る。心臓はまだどきどきと鳴っていた。
(こんな事って、あるんだなあ…)
もう酔いは覚めているのに、顔が火照って熱い。かれんはまだ胸に残る淡い余韻に浸りながら帰路についた。
・・・
実弥と出会ってから数週間後。
かれんは残業がない日は、仕事の帰りにあのバーに一人立ち寄った。マスターも気さくな人で、店内も居心地がいい。勿論カクテルもどれも絶品なので、かれんは週に何度か足を運んだ。でも目的はそれだけではなかった。実弥に会いたかったのだ。不思議なことにかれんが来店すると、必ず実弥はバーにやってきた。実弥とお互いのことや、たわいも無い話しをするのが愉しく、時間を忘れてしまうほどだった。
それから実弥は、バーに行く日はかれんに事前に連絡をくれるようになった。実弥からの連絡が来るたびにかれんの胸はどきんと高まる。連絡が来ない日は、何度もスマホを見てしまう。かれんは自分から連絡しようか迷ったが、願う返事が来なかったらと思うと自分からは連絡が出来なかった。
かれんの中で静かに芽生え始めた実弥への想いは、紛れもなく恋だった。
実弥の時々見せる優しく微笑む顔が忘れられない。その声が、瞳が、かれんの胸を甘く締め付けてくるようだった。実弥に会いたい、もっと話しをしたいと日に日にその気持ちは増していく。
でも実弥が自分をどう思っているかなんて知る術もない。友達でもなければ、恋人でもない、ただあのバーで知り合っただけという人。それだけの関係だ。期待して、自分が惨めな思いをするのが怖かった。
もう誰かを想って傷つくのは嫌だ。いつも通りにいつもの生活を過ごせれば、もうそれだけでいい。
そもそもこんな自分なんか相手にされるはずがないと、かれんは実弥に抱く儚い恋心を見て見ぬ振りをした。それでもかれんは、スマホのメールボックスを何度も開き、その画面を見つめていた。