第5章 摂津 壱
手にした銚子を軽く持ち上げてみせた凪に対し、気を良くした男は短く返事をした後で盃を差し出した。
今度はほとんど並々に酒で満たした状態にし、引き攣りそうな顔を必死に笑みの形へ取り繕う。
「先程の呑みっぷりが男らしくて素敵でいらしたので」
現代で言う、いい呑みっぷりですね格好良いですの文句が通用するかはさておき、そのくらいしかまともな褒め言葉が思い浮かばなかった凪はそう告げた後で断りを入れ、光秀の傍まで戻った。
正面から念の為そっと窺った八千は、どうやら気を害した様子はないらしい。
盃を手にした光秀のそれへ銚子を傾ければ、とくとくと静かな音を立てて酒が満たされていく。すべて満たし切らない内に手を止めては、最初より幾分か軽くなった銚子を傍らへ置いた。
瞼を伏せつつ盃へ口をつけた光秀は、凪が何も反応しなかった事と、八千の呑み方を見て何も入っていないと踏んだのだろう。それでも一気に流し込む事はせず、僅かに中身の減った盃を膳へ戻した。
「お前のついでくれた酒は美味いな」
短く告げて笑んだそれは打算か、あるいは真か。
そもそも光秀には料理の味はおろか、酒の味など分からないのだが、そんな事は八千の知るところではない。
盃を手放した事で空いた片手を持ち上げ、凪の細腰を引き寄せた光秀は、咄嗟の事で無抵抗であった彼女が自身へしなだれかかる様を胸板と腕で受け止めた。
閉ざしていた扇を静かに開き、それで顔下半分を隠すようにした彼はそのまま凪の耳朶へ顔を寄せ、金色の眼で彼女の密かに物言いたげな目を見つめる。
それがほんの僅かに細められると低く控えた小さな声が、八千に届かぬよう秘めやかに落とされた。
「……愛想を振りまき過ぎだ、馬鹿娘」
「……!?」
ほんの一瞬の間であった。
そのまま光秀は長い睫毛を伏せると、はたから見れば頬に口付けているような風を装った後で離れて行く。
吐息がかすめた耳朶や頬が熱を帯びたような感覚に、さっと朱を走らせれば、流された光秀の視線が熱を辿るかのごとく凪を視界へ映し、やがて色を消し去って顔を正面へ向けた。
「…少しばかり意外でしたな。明智殿がそのように女人を傍へ侍らせるなど」
「おや、私とて男ですよ八千殿。時には戯れに興じる事もありましょう」