第5章 摂津 壱
この時代における酒席の決まり事など分からない凪だったが、ひとまず銚子を手に取り、片手を添えるようにして持つと静かに八千の傍へ歩み寄った。
男の傍で膝をつき、顔を上げた凪が相手を窺うように首を軽く傾げる。しゃらん、と髪に挿した簪の飾りが微かな音を立てれば、当初渋りを見せていた割には満更でもなさそうな男が朱塗りの盃を差し出した。
(作法とかわかんないけど、取り敢えず零さなきゃ大丈夫、な筈…!)
社会人になり、飲み会で上司相手にビールをついで回っていた感覚を思い起こしながらそっと銚子を傾ける。
注ぎ口からは清酒の香りが立ち上り、その匂いの濃さからそこそこの度数である事を察しつつ、並々と満たす手前で銚子を傾けていた手を止めた。
「どうぞ、八千様」
「ああ…芙蓉殿も返杯を受けられよ」
「…あ、いえ、私は」
満たした盃を躊躇いなく一気に飲み干した八千は、空になったそれを差し出し、凪の眼を見つめる。
その眼差しに何か不快なものが混ざっているような気がして凪は断りを言い淀んだ。勧められても何も口にするな、と言われている事もあり、必死に言い訳を探す凪が伏し目がちに視線を膝上へさ迷わせる。
その困り顔ははたから見ればどことなく恥じらいを持っているようにも見え、睫毛がふるりと揺れる様はいじらしい…ように男には見えているのだった。
「申し訳ありません、八千殿。その女は酒に弱く、一口嘗めただけで酔いが回ってしまう程なのです。倒れられては面倒故、返杯は御遠慮願いたく」
「そうでしたか、これは失礼」
「おいで、芙蓉。私にも酌をしておくれ」
「は、はい…っ」
すんでのところで光秀の静止が入る。扇子の先を自らの口許へ軽くあてた光秀は、笑みを張り付けたままで肩を緩やかに竦めてみせた。面倒などというその言い草はいかがなものかと思ったが、こういった場であるからだろうとあたりをつけ、凪は内心で深く安堵する。
あっさりと盃を引いた男を他所に、正面にいる光秀によって傍へ呼び戻された凪はその場を立ち上がりかけるも、先程八千が酒を飲み干した事を思い出し、再び男へ向き直った。
「八千様、もう一献いかがですか?」