第5章 摂津 壱
大人びた打ち掛けと小袖が凪の艶やかな姿を一層惹き立てたのか、八千の視線が彼女の白い後ろ首をなぞる。
明らかに男の興がそこに窺え、光秀は親指の腹で扇を開きかけては、ぱちん、と微かな音を立てて口許へ笑みをはいた。
「この隠し女は私に心酔しております。…ですから、私に不利益を運ぶような事は決して致しません」
(光秀さんに心酔設定って、だから一体どんな立場なの私)
扇子の微かな音により凪へ向けていた視線を上げた八千は、はっきりと告げられた言葉を自身の中で呑み込むよう、頭を下げたままであった凪を再び見やり、すぐに光秀へ向き直る。
「なるほど…そういう事でしたら、良いでしょう。貴殿と実りある会談の場を持てるならば、これ以上は何も言いますまい」
「ありがとうございます。流石、ご立派な高僧の方ともなりますと、御心が深くていらっしゃる」
互いに本心の見えぬ薄っぺらい言葉の応酬が続く中、しばらく頭を下げていた凪は、タイミングを見ておもむろに体勢を直すとこれから酌をする事になるだろう、膳の上へ視線を巡らせた。
鼻腔をくすぐるのは室内に焚かれている白檀のみであり、いまのところ怪しげな匂いは感じられない。
飲食物に毒が入っている可能性を事前に考慮しているとはいえ、光秀はおそらく、酒を口にしないという事は出来ないだろう。
(…お銚子の中はわからないけど、見た感じは大丈夫そう)
とはいえ、凪は毒を嗅ぎ分ける訓練など当たり前だがしていないし、無臭のものであった場合は看破出来ない。
過ぎる不安を抑え込み、視線を何気なく光秀へ投げれば、彼は口角を緩やかに持ち上げたまま片手を伸ばし、耳朶裏から頬の線を辿つつ顎の辺りを指先でくすぐった。
ここに至るまでの触れ合いなどとは異なる、異様に匂い立つ色香を感じる指先に、ついぴくりと瞼が震える。
「芙蓉、八千殿に酌を」
「…はい」
(…触り方!!)
低く囁かれた言葉に頷くほかない凪の内心の突っ込みを見透かしているかのごとく、光秀の金色の眼が眇られた。
銚子に入った酒は当然八千と光秀で共有される。盃そのものの飲み口などに仕込まれでもしない限り、恐らくは問題ない。
(八千って人が先に口を付けようとしなかったら、中身も怪しいって事かな)