第5章 摂津 壱
その時、歩き出した光秀の影に隠れるようにしていた凪の姿を認めた八千は、一瞬見咎めるかのごとく僅かに眉根を寄せた。
男は袈裟をまとっており、それだけで騙りでない限りは僧侶である事が窺え、凪は内心で首を傾げる。
(なに、お坊さんだから女は無理って事?)
「明智殿、その女人は一体どなたですかな?今宵は女を介さず、貴殿と静かに酒を酌み交わしたく思っていたのですが」
ほんの僅かな表情の変化であっても光秀がそれを見逃す筈がない。
すぐに取り繕った様子で貼り付けた笑みを浮かべた八千は、あくまで愛想の良いまま凪を一瞥したのち、光秀へ意識を戻した。
(…ああ、余計な人間がいると、悪い話が出来ないって事ね)
凪の思考を他所に、光秀は扇を静かに閉じるとそのまま片手に持ち、勧められた席へ腰を下ろす。
正座ではなく胡座をかいた体勢で、扇子を手にした側の肘を脇息へかけた。
「これは申し訳ございません。…しかしどうぞご安心下さい」
つい、と伏し目がちな視線を流して立ったままの凪へ空いた片手を差し出し、いざなうようにして自らの傍らに置かれた座布団へ彼女を座らせる。
「この女は私の隠し女(かくしおんな)故、無粋な口出しなどは致しません。…酒の席に華の一つも愛でられぬとは、あまりにも風情がないというものでしょう」
(かくしおんな…?)
光秀の言葉が自分の紹介であろう事は何となく理解したが、肝心な立場が分からない。言葉の雰囲気から考えて、つまり酌をする役目であろう事を察し、座布団の上へ膝を折った凪はそのまま瞼を伏せるようにして正面の男へ頭を下げた。
「初めまして、芙蓉と申します」
要するに下手な事を言わない控えめな女を演じればいいのかと自己解釈した彼女は、静かで落ち着いた声色を意識し、八千に向けて挨拶を紡ぐ。
「ほう?」
凪が頭を下げたと同時、無防備に晒された項や白い後ろ首が覗く。瞼を伏せた際に肌へ落ちた睫毛の影と、紅で彩られた彼女の姿は贔屓目なしにも美しい。
部屋の四隅と膳の傍に置かれた行灯の灯りが揺れる室内は闇の色と橙色とが混ざりあっていたが、その妖しい薄明かりであっても鮮明な色を見せていた。