第5章 摂津 壱
室内には上品な白檀の香炉が焚かれていた。
あまり強くはない香りに安堵しつつ、凪は光秀の後について肩越しにそっと中を確認する。
しかし入口付近からは室内が窺えないよう、金の屏風が仕切りのように置かれている所為で、このままでは中を把握する事は出来ないようだった。
「それではわたくしはこれにて。ごゆるりとお寛ぎくださいませ。御用の際には、膳の傍にございます鈴をお鳴らしくださいまし」
「…ああ、御苦労」
店の主人が深く腰を折って声をかけ、二人が入室し終えたのを確認すると静かに襖を閉め切る。
その音を背後で聞きながら光秀は口許を隠すようにしてあてがっていた扇子をそのままに、視線を僅かに流して凪へ目配せした。
それが化かし合いの始まりの合図だと察した彼女は、小さく頷いて見せると道行きの最中ずっとそうしていたように、光秀の腕へ控えめに自らのそれを絡める。
(良い子だ)
細められた視線でそう言われたような気がしてどことなく恥ずかしくなり、顔を軽く俯かせた。道中の男の意図が、凪の取るべき態度を教え込む為だけだったのかはさておき、幾分か慣れた距離感に内心で安堵する。突然こんな距離感で接していろと言われて平常でいられる程、凪は鉄仮面ではない。
「お待たせ致しました。八千(はっせん)殿」
噂話を聞かせてくれた小間物屋の商売人と話していた時とはまた違った愛想の良さを覗かせ、光秀が声をかける。
そのまま凪を傍らへ伴い、屏風の向こうへ歩みを進めた光秀は、部屋の奥側へ位置する脇息へもたれつつ座布団へ腰掛けていた男を捉え、ゆるりと扇子の下で笑んでみせた。
部屋には八千と呼ばれた男が座する場所と向き合うようにもう一つの脇息と座布団が置かれており、その傍らには元々酌をする店の女が使う用であったのだろう、客用のそれよりも少しばかり薄い座布団がある。
二人の前には料理や盃が乗った膳が用意されており、銚子(ちょうし)には酒が既に注がれているようだった。
「いえいえ、まだ約束の刻限は越えておりませんよ。ご安心ください明智殿。さあ、どうぞお掛けください」
「貴方のような素晴らしい御方をお待たせするような事がなく、安心致しました。では、失礼致します」
八千は光秀に向けて愛想の良い笑みを浮かべて、自身の向かいの席を勧める。