第5章 摂津 壱
「中に入ればまともな会話は恐らく出来ないだろう。先に伝えておくが、会談の場のものは例え勧めらても一切口にするな。…お前の鼻が万が一異変を嗅ぎ取った場合は、相手に見えないよう俺の袖を引け。いいな?」
「わ、分かりました。何かあったらこっそり教えます」
「ああ、良い子だ」
敢えて光秀は口に出してはいなかったが、つまり用意されている飲食物に毒などが混入している可能性があるという事だ。
直前になって異様に緊張して来た凪の応答する声が先程と同様に硬い事に気付き、光秀は口元を緩く笑みの形にしてみせる。
「あとは言った通り、俺の言う事を聞いて身を委ねていればいい」
「…はい」
緊張は完全には解れてなどいなかっただろう。しかし、やがて凪は意を決した様子で真摯な眼差しを光秀に向けた。
「せめて足を引っ張らないよう、頑張ります」
(やはり、お前はいい目をしている)
気丈な様で意気込みを口にした凪を暫し見つめ、光秀は普段見せているような笑みではなく、どことなく勝気な笑みを浮かべ、それまで引き寄せていた凪の腰から手を離す。
ざあ、と林の木々が風に煽られて葉擦れの音が響き渡った。
風に流された黒い雲がゆっくりと流れ行き、僅かな間に姿を隠していた月が顔を覗かせ、冷たく冴え冴えとした光が男の銀糸を照らす。腰帯に差していた黒い鉄扇を抜き取り、硬い音を立ててそれを開いた光秀は、風でなびく羽織の袖をそのままに月明かりを背にして扇を口許へ宛がった。
どこか蠱惑的で危うい美しさを放つ姿を目の当たりにし、凪は思わず男の姿に目を奪われる。向けられた金の眼から視線を逸らす事が出来ないでいると、光秀の眸がゆっくり眇られ、音を発した。
「─────さて、化かし合いに興じるとしようか、芙蓉(ふよう)」
────────…
その場所は、外観の質素な造りとは裏腹に建物内の調度品は実に豪華であり、閉め切られた幾つもの襖は豪勢にも金箔が散りばめられ、見事な牡丹の花が描かれている。
鼠との会談場所である、この座敷茶屋に足を踏み入れた二人は手もみした、いやに愛想の良い初老の男に案内され、奥の間へと通された。