第22章 落花流水 前
端から端へと滑る親指が艷やかさを発するグロスを拭う最中、ちゅ、と二人にしか聞こえない程度の音を立て、光秀の唇が凪の親指の腹へ軽く口付ける。
「!!!」
「綺麗に拭えたか」
「う、動かないでって言ったのに…!!」
拭い終えたタイミングで落とされた口付けに驚き、片手で庇うようにして自らの手を引き戻した。赤く火照った顔を見つめ、すっかりグロスが拭われた唇に弧を描き、光秀が確認すれば、返答の代わりに文句が降って来る。周りはすっかり二人の空気感に呑まれ、針のような視線は次第にその鋭さを失って行く。
それもこれも、原因は一人の男の所為だ。
惚れれば地獄────安土城下に住む女達ならば誰もが知るそれを覆すかの如く、光秀の凪に対する態度は甘やかである。そんな態度を向けられている彼女に、勝ち目があるのか。一周回って嫉妬云々ではなく、人知れず敗北感をもたらした二人は、その後も何やかんやと軽い戯れを続けながら、ひとときの休息を楽しんだのだった。
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甘味処を後にした時には、太陽は少しずつ傾きかけている頃合いであり、序々に道行く人々が夕餉の支度の為、買い出しへ行っている刻限にも差し掛かりつつあるらしく、店へ入る前よりも人通りが多く溢れている印象だ。とはいえ、文月ともなればまだまだ空の明るさが目立つ。そんな中、並んで手を繋ぎ、歩いて光秀が連れていった先は、大通りから少し逸れた先にある一軒の小間物屋だった。中規模と呼べる程度の店構えのそこは、外観こそ質素な印象を受けるものの、暖簾の向こうは甘味処程ではないが、賑わいを見せている印象である。
何処へ行くんですか、という凪の問いに対し、行けば分かるという通例の返答を得た彼女が大人しく光秀へついていった先がそこであり、摂津でも一度小間物屋は見たものの、実際まじまじと店内を見た訳ではないので、こうして凪が訪れるのは初めての事だ。
暖簾を潜った先は幾つかの陳列棚が並んでいる、比較的落ち着いた空間が広がっている。先程の甘味処と異なり、恋仲だろう男女の組み合わせが多い印象だが、女性同士の客も居るようだ。